2021年10月17日

終わり

2020.12.20 脳天気の吾輩も遂に最後の日を意識するようになった。長年、終わりは90歳を意識して生きてきたから(92歳を目標にしていた時あった)、別に恐怖はないが体の機能が次々と失われてゆくと、あと何日、何時間と余命を考えるようになる。

ま、後続の諸君の参考?のため私の現況を少しばかり詳細に述べてみようか。

今年の最初の入院のヘルペスは現在辛うじて進行は抑えているが、症状は快方に向かう気配はない。肺炎は食欲は増加して検査結果も良好だが、相変わらず咳もでるし、多少の痰もでる。病院の岡藤先生の診断によれば、長年住み着いた肺炎菌を絶滅させる力は私にはもうない。歩行力は激滅した。杖がなくては10メートル前後の距離が限界点に近い。しかし、杖があれば2-30メートル位は移動ができるので多少の仕事は可能。幸い小型のショベルなら乗車してしまえば1-3時間ぐらいの仕事は出来るが、両足の血行が不良で氷のように冷たくなり、こたつやアンカで温めるのに2-3時間もかかる。その原因は下肢の血管の老化と理解はしているのだが、薬で治るたぐいではないと書物にあった。何しろ90歳だからね、これも老化が原因と理解している。この文のキーを叩く左手の甲にも4センチばかりの出血斑がみえる。どこに打ち付けたかは記憶にないが大きな出血斑である。もう一つあってヘルニアが再発した。20年余り前に手術して完治、忘れていたのだが再発した等、思いつくままに取り上げてもこのくらいはある。これでは嫌でも終わりが近いと意識せざるを得ない。しかし、90年近くもの長い時間を与えてもらった幸運は感謝しても感謝しきれない。

私の家族は一時しのぎの気休めは口にしない。変人、見浦哲弥としては最高である。振り返ってみれば全てが幸運だったと思っている。有難う、 本当に有難う。

最後に私は自然に帰りたい、” 千の風になって”の歌詞ではないが、見浦牧場の空を何時までも飛んでいたいと願うのだが、欲が深すぎるだろうか。

見浦哲弥

2021年10月16日

読書

私は読書が好きだ。子供の頃から母から本を与えられて読書の習慣を植え込まれた。おかげで小卒の学歴ながら一応の知識を持つことができ、大卒の専門家と話してもなんとか意思が通じた。しかし、小板は山奥、中心の役場までは20キロの距離、雑誌がおいてある小さな文具店が1軒、本屋の体裁をした書店は30キロの彼方にあった。それも私が育った三国の書店の1/10にも満たない小さな小さな規模のね。10歳で小板に帰郷し敗戦1年後までの5年間が私の読書の最悪の期間だった。

戦後1年の冬、仕事ができない冬の間だけという条件で広島に働きに出た。英語の塾に通うのが目的でね。本通りの森井という文具屋さんが働き口で、夜学に通ったんだ。私が英語のラベルくらいは読めるのは、そのせいである。

働き先から泊めていただいた岡本さんの家まで帰る途中に広島駅があり、その道端で本の露天商がいた。勿論、混乱の極みの戦後である。道端のマットの上に数少ない商品を並べただけの露天商中の本屋?の中に月刊の"科学朝日”を見つけたときは嬉しかったね。乏しい財布をはたいて買ったのは云うまでもない。しかし時は戦後のインフレーションの時代、本の価格欄に次々と紙が貼られて新しい値段が表示される。朝、覗いたときは時間がないので帰りに買うことにして、その帰りには値上がりしていてね、物凄いインフレの時代だった。そんな「しまった」と思ったことは何度もあったね。しかし混乱の時代でも”科学朝日”は真面目な本でね、戦時中の空白の時間を埋めてくれた。私にとって貴重な雑誌だった。

小板は広島市から70キロあまり、道路事情は良くない。当時は行くのも1日、帰りも1日、文化には遠い地域だった。従って若者の憂さ晴らしは、神楽と田舎芝居と酒と女の子、貴重な人生の大切な時間が空転して過ぎ去ってゆく、虚しかったね。いっときは強要されて付き合ったこともあったが、振り返れば、あの時間は惜しいことをしたなと残念である。気がついて一線を画したが返って来たのは変人のレッテルだったね。

しかし、与えられた空間が時代と離れていたと悔しがっても、時は休みなく過ぎ去ってゆく、悔しかった。せめて読書ぐらいはと何度も思ったものだ。

地元の青年団の付き合いも止め、神楽団も退団して講義録や参考書を読みふけり、理解ができないときは発電所を訪れて教えを請うた。貧乏な1青年の疑問に真正面から教えてくれた人達、戦争には負けたが日本はいい国だった。

5年の歳月の積み上げは私のような凡人にも、それなりの評価をしてもらえた。

電気工事士1種の国家試験には合格したが、見浦家は私の願いを聞ける状況にはなかった。私の5年間の努力は親友のN君の発奮に資した、それだけで終わったのだが、少ばかりは役に立ったのでは。

しかし、本読みの習慣は一生残った。 科学物の雑誌や推理小説はいくら読んでも飽きることはなかったね。今、その本達が空き部屋を占領している。貧乏だった私は書架を作り収める事は叶わなかったので、一読したらダンボールの中に直行、専門書から、雑誌、 週刊誌まで至るところに積み上げてある、雨漏りの蔵の2階は古いリンゴ箱に詰め込まれた雑誌の山、古タンスには親父さんの数学の専門書が仕舞込まれいて腐り始めている、時代は変わって現代は電子の時代、コンピューターをはじめ、電子機器が氾濫、昔の書架に保存できるのは一部の金持ち族以外は困難になった。

そして、老人は自分がたどった道を思い出してはつぶやく。が、今はその声を聞く人はいない。

とにかく世の中は変わった。貧乏に追われたが私は読書と云う素晴らしい国に逃げ込む事ができた。これはこれで良しとしなければ、と思っている。

でも倉庫や物置に眠っている書籍の山、もう一度読むことが出来たら、あの希望に満ちた青春時代にもう一度、触れることが出来る、と叶わぬ夢をみる。人は愚かな弱い生き物なのだ。

2020.12.21 見浦哲弥


2021年8月13日

ふるさと納税

見浦牛肉がふるさと納税に参入して何年になるか?。ミートセンターの律子(私の3女)君の奮闘で徐々に数量が増加してきたのだが、昨年末からは数量が急激に伸び始めた。時には現場が悲鳴を上げるほど多忙にと、想像してなかった急激な伸び、見浦牧場の歩み方にはかつてなかった現象が起きている。

ところが見浦牧場は小さな経営、さらに現在は経営の世代交代期とあって少々混乱している最中、商業と違って急激な伸びには対応しにくい。おまけに牧場と直販店とキャンプ場の3部門、小さな小さな経営の集合体だから、急成長には耐えられない。おかげで悲鳴を上げる部門と、辛うじてこなしている部門と、急激なユーザーの増加への対処に追われている部門と、リタイヤした老人の目から見ると大変だなとしか云う言葉がない。

しかし、考えてみると飼料効率と枝肉重量の増大を目標に改良と飼育期間の増大を追い続けた和牛飼育、本来の食味の良さより見栄えを追求するシステムに疑問を持ち続けた見浦牧場、このままで結論が出るとは思わないが、少数でもいいから見浦方式にファンが出来て欲しいと、好評なら好評の過大の評価を恐れている。

どう考えても、見浦牧場には体力を越した急激な伸びに耐える力はない、 力に応じたお客さんの数をと願っては居るのだが、老人が介入するには厳しすぎる世界である。

世の中は巨大化システムが正しいと様々な理論がまかり通っている、その一方で小規模企業は切り捨てられると、恐怖の中でひしめいている。でも私は信じている、小さな企業も生き残る道はある。野生動物は生き残るために全力で生存競争を戦っている、その姿に学ぶものが山積している、見つめれば競争の勝者の教えが秘められていると私は考える。

思いもかけずに好評の見浦牛肉のふるさと納税、つまずかないことをひたすらに願っている。

2020.12.29 見浦哲弥


仲間

見浦牧場の牛の飼育方法は群飼育と言います。

ここ中国山地では、昔から役牛 (トラクターなどの代わりに仕事をする牛) として和牛が飼われていました。私も子供の頃は牛を使って田んぼを耕していましたから、7- 80年前も前の話です。その頃は1頭毎の牛房(牛の部屋)が一般的でしたが、大畠 (見浦牧場の古い屋号)では大きな牛小屋の柱に何匹も繋いで飼う大駄屋 (おおだや) と呼ぶ古い方式でした。窓も換気口もない部屋にハナグリ(鼻輸)で繋ぐのですから、 非牛道的(?) な飼い方でしたね。おまけに踏み込み式と称して、草やわらを放り込んで行く、1年に一回冬の積雪を利用して、敷料や糞を田んぼに運ぶと駄屋の底が低くなってね、それまでは刈草や牛の糞で牛小屋の底が高くなって見上げるようになる、そんな環境の牛は、今考えると悲惨でしたね。

それを今から60年ばかり前に、群飼育方式の一貫経営に切り替えたのですから大変で、次から次へと新しい出来事の連続、今までの知識は全く役にたたず、試行錯誤の連続でした。周辺の農家が「わしらーも、昔は牛を飼うとったけー、 素人の見浦とは違う」と、彼等もふたたび牛を飼い始めたのですが、如何せん役牛と肉牛の飼育は全く違う世界、問題が起きると「見浦君、済まないが見てくれ」と頼みにくる、解決すると途端に昔はこうだった「見浦は何も知らない」と批判する、人に頼ったり、自分の考えに固執したり、皆さんも大変だなと同情したりして。

役牛としての飼い方と、肉牛として利益を上げるための飼い方は全く別物なのです。同じ和牛を相手にしながら異質の考え方が必要だと言うことを理解できなければなりたたない、そんな世界だったのです。

見浦牧場も最初は上殿の家畜商から2頭、芸北町の家畜市場から2頭、北広島町の家畜市場から5頭、三次の家畜市場から2頭など、あちらこちらから買い集めた子牛と、飼えなくなったと持ち込まれた県有の貸付牛など雑多な牛の集まりでした。勿論、昔の飼い方の中で生産された1頭飼いの牛ばかりでしたね。

和牛は神経質な牛でして、乳牛と比べると集団では飼い難いと言われていました。これは見浦牧場だけでなく全国的な傾向でした。北海道の白老町から見学に来られた農家の方も、見浦牧場で和牛を集団で放牧飼育していると聞いて、自分の目で見なくては信じられないと、わざわざ確認にお出でになりましたから。

見浦の牛を見て、放牧に適するように選抜淘汰して牛を作るのが、肉牛としての和牛の基礎の基礎と知って、自分たちも考え方を変えなくてはと理解をして頂いた時は嬉しかったですね。しかし、60年以上も経過した現在もこの考えは少数派なのです。

勿論、私達の見浦牧場も初期はそんな知識の持ち合わせはありませんでした。参考にする論文は、動物の行動や習性について詳しく論じたものはありませんでした、試行錯誤、まさに試行錯誤、その為に犠牲になった牛達には可愛そうなことをしたと、今でも心が痛みます。

動物はドミネンスオーダーとテリトリーと呼ばれる相反する本能を持っています。ドミネンスオーダーとは順列のことで、仲間との集団生活の中で、力の強い個体がリーダーになり、力の順に集団の中での順位が決まります。一方、テリトリーは縄張りのことで、より広い自分の勢力範囲を守るために死力を尽くします。どの動物も、この2つ本能を一方が大きければ他方は小さいと言う形で持っているのです。

皆さんも、よくご存じのニホンザルは順位の本能が大きく、縄張り本能は比較的小さい。だから必ず集団を作り、順位を決め、リーダーを選びます。縄張りを守る本能は小さくて、僅かに食事時の餌を守る程度。

ツキノワグマは縄張りの意識が強く、繁殖期以外は個体が自分の縄張りを死力をつくして守ります。見浦牧場に時々来場する熊君は何時でも単独で行動、複数でも母親と子供のペア、同時に二頭の成獣が現れた事はありません。彼等の縄張りは5キロ四方だと聞いていますが。

最初、見浦牧場の牛群は、この順列を決める際の争いで傷つきましてね。幸い死亡事故はありませんでしたが、獣医さんのお世話になるような傷が多かったものです。そこで専門家に意見を仰ぐと角を切れとの指導。参考書を見ると「除角」という項目があり、そのための方法や道具が列挙してありました。そこで早速角切を実行、素人が生半可な知識で新しいことに挑戦するのだから、失敗の連続、 この詳細は”角と教育”の文章を読んでください。ところが集団で周年放枚するシステムが確立するにつれて喧嘩は少なくなり、順列が決れば争いも即おさまる、怪我をして治療が必要な話はどこへやら。 従って角切の話など昔話になってしまった。専門書にかなりのスペースで紹介されて重要な技術だと思ったのにね。

その認識で動物や鳥を見ると、この本能の持ち方は種によって大きく異なることがわかりました。例えば我が牧場の大害鳥のカラス君、見事に順列を守って集団行動を取る、狸君や狐君は家族単位の小集団で、そして牛は集団で暮らす動物でした。そんなことは畜産の教科書には書いてなかった、 盲点の一つでしたね。

現在でも、この性質を経営に利用しようと言う話を聞く事はありません、私の寡聞なのかもしれませんが?。大投資が出来ない私達のような小さな牧場では個々の動物の理解を深めることは、経営を続けてゆくための大切な要件の一つではと思うのですが?。

2019.12.30 見浦哲弥


2021年4月16日

2020.09.28 長い間、海を見に行く機会がなかった。小板は中国山地の頂点近くにある、どちらの海にも60-70キロは走らなくては行けない。体力が落ちてからは久しく行けなくて、何とか気力、体力がある間にもう一度海を見たいと思っていた。

今日、3女の律子君が暇が出来たので連れて行こうかと誘ってくれた。午後で気力が落ち始めていたが彼女も仕事の隙間を作ってのこと、好意には従わなくてはと彼女の自動車に乗り込んだのだが。

10年あまり前の元気な体なら気にもかけなかった益田の海は遠かったね。 途中で止めるわけには行かないし、体力の限界だった。それでも、たどり着いた益田の海は最高だった。市街から高津川を渡って2-4キロで萩につながる国道9号線は10キロばかり海岸に沿って走る、そこは日本海、遮るもののない大海から波が押し寄せてくる。

牧場をはじめて何度も困難に行き当たった、精神力が強くない私は止めようと思ったことは何度かあった、その都度、この海を見に来たものだ。日本海の荒波が後から後から絶えることなく押し寄せる、海岸で砕け散っても、次の波が押し寄せて。はじめたからは命のある限り追い続けよと教えているようにね、その波頭を見続けているともう少し頑張ってみようと思ったものだ。

あれから何十年たったのか記憶はさだかではないが、この海の押し寄せる波に何度も勇気をもらった、もう少し、もう少しとね。その益田の海は懐かしくもあり、厳しくもあり、そして私の先生でもある、最後まで全力で生きよと声をかけてくれた心の師だった。

私は地球という自然の中に生きている。生まれてくるのも、この世を去るのも私が決めるのではない、総て自然の命ずるまま。でも私は自然と会話ができる感性を持てたと思って生きた。変人見浦と評価するのは貴方の自由だが、一度は視点を変えて自分も自然の影響下にあると考えて見ることは出来ないか。考え方が広がるかもしれない、見えなかった幸せに気付くことができるかも。

2020.11.6 見浦 哲弥

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