2021年2月25日

ヘルペスと闘う

2020.02.14  昨夜から左の頭部から顔面が急速に腫れる。作業の流れで家の人間は都合がつかないので、キャンプ場を建設中の淑子くんに依頼して安芸太田病院に連れて行ってもらう。ヘルペス(帯状疱疹)と診断され、即、可部の安佐市民病院に入院する。友人の的場君がヘルペスで顔面が変形するほどに腫れて、1年の闘病の結果やっと落ち着いたと聞いたばかり、それが我が身に起きるとは信じられなかったね。

まだ調べてはいないが、ヘルペスは体内に潜んでいたヘルペスウィルスの一種の水疱瘡ウイルスを抑えきれなくなって発症するのだと。ウィルスを退治する薬はまだない。彼等は生物でないから、体が反応して抑え込んでいるだけだと。調べるとインフルエンザをはじめウイルスが原因の病気は数多い。かつて私が患った日本脳炎も同類である。

入院してもウイルスそのものをたたく特別の薬はない。ひたすらにウィルスの増殖を抑える点滴が毎日続くだけ。しかし、ヘルペスの領域拡大の速度は徐々に減って左眼の黒目に到達の寸前で止まって、眼科の先生が「これなら視力は戻るでしょう」と診断、危ういところだった。

老化は体力の低下ばかりか、病の抵抗力も低下する。残念ながらそこまでは気が付かなかった。現在のバランスを保ちながら徐々に衰えてゆくものと理解していた。ところが現実は抵抗力が低下した体に様々な病が押し寄せてくる。生きることは甘いものではないと警告しているようにね。

しかも、なれない病院生活を理解してゆくには努力がいった。ベッド、トイレ、車椅子、その他、エトセトラ、その対応に衰えた頭脳が悲鳴をあげる、そして失敗の連続、我ながら情けなかったね。

4人部屋の病室には、他の患者さんのご家族が次々とやってくる。そして聞くとなしに耳に入る会話で、知ることがなかったよその御家族の生活をかいまみる。それぞれの温かい会話の中で、一人娘さんに頼り切った患者さん、奥さん天下だったねの御家庭、小さな病室で聞こえてくる小さな社会の断面は私が気が付かなかった世界を教えてくれた。

入院の中にも教室があった。そして退院ができた。私に少しばかりの時間が与えられた、大切な時間をね。さてどう生きるか、最後のささやかな時間を仕事に全カ尽くしてみたいね、そして報告できれば。

2020.10.05 見浦 哲弥


2021年2月24日

デキスタが作業

今日はデキスタが活躍している、と言っても貴方は何事か理解は出来ないだろう。デキスタはイギリス製の小さな(当時は中型に属した) トラクター、私が彼を最初に見たのは20代の半ば、広島県の試験場で、どこかは記憶意がさだかではないが、本格的なトラクターで素晴らしいと思ったね。当時のイギリスは農業機械でも先進国、それから何年か後に導入した三菱製やクボタ製は機構的にも設計も加工技術も格段の差があった。同じように戦った日本は頂点の技術では辛うじて対抗できても、末端の技術では雲泥の差があったように思う。特に農業機械ではね。巨大な単気筒の石油エンジンを積んだ日本製の耕運機、ロータリー式はわらが巻き付いてね、耕転式はものすごい振動でね、そこにメリーテーラーなる2.55馬力の耕転機が輸入されて大人気になった。非力だが作業機を変えれば牛一頭の仕事を何とかこなす、これはいけると一大ブームになった。大切にしていた役牛を売り払って購入、 農繁期はこのミ二耕転機でしのいで、農繁期が済むと都会の建設工事の労働者として賃仕事に励んだ。何しろ餌をやらなくて済む、小板も例外ではなくて冬は都会、夏は地元の土建屋、 草を刈る人は少なくなってね、あれが小板崩壊の兆しだった。

おまけに除草剤なる商品まで現れて農作業は確実に減った。やがて日本の復興が軌道に乗ると都会の賃金は上昇、居家離村が始まった。小板も例外でなく、最初はひっそりと、それからは周囲に堂々と挨拶をして離村、農村崩壊の嵐が小板にも吹き荒れた。

さりとて住民も徒手傍観して時代に流されたわけでもない。何とかしたいと思っても、学校教育は経営者を育てるところではない、労働者、いや勤労者を育てるところだ。商売をと考える人も皆無ではないが、変化し続ける経済の理解が足りないから成功する人は限られていた。

そんな農村の中で、稲の刈り取り脱穀が1度にできるコンバイン、生籾から手入らずで乾燥できる乾燥機、等々、新しい農機具が次から次へと登場、農村からの資本流出の流れは止まらなかった。

そして気がつけば日本の農業機械は世界レベルに到達、稲作機械は世界一を標務しても笑われることがなくなった。そんな長い歴史を知る一人として我が家の60年以上前のデキスタが動く、しかもニコイチ(2台の中古機の使える部品を合わせて組み立てて再生すること)の機械がと、考えると感無量である。

2020.10.04 見浦 哲弥


2021年2月16日

ツクツクボウシ2

夏の日、小板の自然はアブラゼミの大合唱である。暑い暑いと言いながら時を忘れて仕事に精を出す。タ方ふと気がつくとセミの声の中に微かにツクツクホウシと秋の前ぶれの声が交じっていた。

今は河川改修で消え去って偲ぶべきもないが、うまれ故郷の三国の九頭竜川と竹田川の河口の交点にあった汐見の桜堤防、夏はアブラゼミの大合唱だった、遠い遠い少年の記憶が昨日のことのように蘇る。あの大合唱には及びはないが、小板でも同じセミの合唱は聞こえる。そのセミの声にツクツクボウシの声が交じると、季節は一気に秋になだれ込むのだ。それを聞くと冬近し、小板の一番の厳しい季節が目前と身構えるのだ。時間は止まることはない、いや高齢になるにつれて時間が高速で過ぎてゆく、残りの時間は少ないよ、と声をかけながらね。

ツクツクボウシの鳴き声の時間は短い、何日かして、ふと気がつくともう聞こえない、時は急速に秋になり、冬に走りこむ、そこで若かりし時代とは時間の流れの速さが異なることに気がつく。二度とない時間が去る現在の感覚は体験したことのないもの、長い地中での生活の末、晴れやかに命を歌った蝉たち、彼等の地上の時間も短い、そして私も振り返れば短い命だった、精一杯生きたのだろうかは自信がない。

夏のひと時、ふと耳に止めた蝋の声が心に染み込んで幸せを感じている。

2020.09.26 見浦 哲弥


2021年2月3日

巨大な猪家族

元スキー場の草刈りで巨大な猪家族に出会った。50メートルも離れていたかな。巨大な成獣のペアと仔猪が4頭。人間がいると確認しても逃げないのだから、小板も野獣の天下になり初めた。仔猪は懸命に餌探しだが、巨大なペアは時おり顔を上げてこちらを確認をするだけ、人間のほうが飲まれてしまってね。本来ならトラクターに飛び乗ってその場を離れるべきなのだが、奴さんたちの行動に注意を集中してしまって、彼等がやぶの中に消えるまでをただ見つめるだけ。消えてから危ないと感じたのだから私ももうろくした。

小板も豪雪の時期が過ぎて暖冬が続くようになった。そのせいで昔は見なかった動物までご機嫌伺いにやってくる。サギもその一つ、アオサギとシラサギが二羽か三羽、お陰で小板川の小魚は激滅してたまにしか見かけない。少しは遠慮してくれと声をかけたくなる。

ただ、あれほどいた兎は見かけなくなった。冬の朝は彼等の特徴ある足跡が雪面一杯に広がっていたものだが、最近は年に1一2匹見かけるだけ。ところが猪はバツグンに増え、牧草地を初め道路端まで、およそミミズがいそうなところは徹底的に掘りまくる。普通の田畑は電柵を設置しないと収穫皆無になるありさま、おまけに日中でも見かけることが多くて、人間何するものぞの勢いである。これでは年老いた住民が集落から逃げ出すのも無理はない。

ところが小板で見かけるのは、この一家族だけでない。我が家の近くでも5頭のウリ坊(縞模様の残る仔猪)を連れた一族を確認したと家族が報告、とんでもない非常事態が発生しているのだ。

かっては2-3人もの猟師がいて獣を追い回していたのに、老齢化で一人もいなくなってから小板は彼等の天国と相成った。少数になった人間様は被害におののくだけ、幸い事故は先年、熊に引っかかれた1件だけで、幸いと云うしかない。

さて、見浦牧場はこれからこの野獣たちとどう付き合ってゆくのか、老人は大いに気がかりである。

2020.09.26 見浦 哲弥


2021年1月30日

全農見浦

「全農見浦」、屠場に牛を出荷すると出荷主の確認を容易にするために牛の腹部に黄色いペンキでマーキングする、その折、見浦牧場の牛に書く ネーミングである。従前は農協専属の屠場への出荷だったから、出荷主の確認は、日本の牛全頭に装着が義務付けられている耳標の確認でことが足りたのだが、現在は合理化のため小さな屠場は廃止されて、この地区は広島の屠場に出荷する。100万都市広島の屠場には全国から牛が集まる。勿論、耳標確認はするのだが、屠場の職員が確認しやすくするために胴体に名前を書き入れる。確認を容易にするためにね。

最初に何と書こうかと思ったんだ。が、ふと思い出してね、遠い昔、農協の自前の屠場ができる前、まだ農協の肥育牛売買の部門が確立していないときだ。そのころは農協経由で広島や呉の屠場に処理を委託して肥育牛を出荷していた。最初の肥育牛を当時の広島の屠場に連れて行った時、弱小の農協経由の出荷と知った3-4人の業者に「よくそんなボロ牛を持ってこれるな」などと散々いじめられてね。その悔しかったことは、あれから60年も経ったのに昨日のことのように思い出す。

時代が変わって、今や農協の上部団体の全農(全国農業協同組合連合会の略)の食肉部も力をつけた。今は幹部となった黒木君や早世した中野君などの優秀な青年が入社してきて、旧態依然の食肉業界の実情に悲憤慷慨(ひふんこうがい)したものだ。その後、立ち遅れた農協組織も自前の屠場を持つほどに力をつけた。

そして大都市に成長した広島市は旧来の屠場を整理して近代的な大屠場を新設することになった。国も市も業者もそれぞれに資金を負担してね。それが現在の見浦牧場が利用している広島市の食肉処理場なのだ。資金力で力をつけた農協を無視して業者だけの屠場運営は不可能になったかどうかは知らないが、農協の発言力は大きくなった。

そのおかげで小さくなって屠場に肥育牛を搬入することはなくなったが、私には初めて広島の屠場に牛を出荷したときの屈辱を忘れることができない。そこで我が牧場の牛には、ことさらに「全農」の文字を加えて、「全農見浦」とマーキングしている。見浦牧場の小さな意地、他愛のないことだが、その意地が見浦牧場を支えてきた、私はそう思っている。

しかし、経済は常に走り続けなければならない。時代が止まることはないし、停滞は、即、競争からの脱落を意味する。小さな牧場だからこそ、意地も戦力にしなくては生き残れない。そして、今日も我が出荷牛には「全農見浦」と大書する。

これが小さな小さな見浦牧場の意地なのである。認められたいから大書するのではない、自分を支えるための意地なのである。

2020.09.24 見浦 哲弥


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