2021年1月30日

全農見浦

「全農見浦」、屠場に牛を出荷すると出荷主の確認を容易にするために牛の腹部に黄色いペンキでマーキングする、その折、見浦牧場の牛に書く ネーミングである。従前は農協専属の屠場への出荷だったから、出荷主の確認は、日本の牛全頭に装着が義務付けられている耳標の確認でことが足りたのだが、現在は合理化のため小さな屠場は廃止されて、この地区は広島の屠場に出荷する。100万都市広島の屠場には全国から牛が集まる。勿論、耳標確認はするのだが、屠場の職員が確認しやすくするために胴体に名前を書き入れる。確認を容易にするためにね。

最初に何と書こうかと思ったんだ。が、ふと思い出してね、遠い昔、農協の自前の屠場ができる前、まだ農協の肥育牛売買の部門が確立していないときだ。そのころは農協経由で広島や呉の屠場に処理を委託して肥育牛を出荷していた。最初の肥育牛を当時の広島の屠場に連れて行った時、弱小の農協経由の出荷と知った3-4人の業者に「よくそんなボロ牛を持ってこれるな」などと散々いじめられてね。その悔しかったことは、あれから60年も経ったのに昨日のことのように思い出す。

時代が変わって、今や農協の上部団体の全農(全国農業協同組合連合会の略)の食肉部も力をつけた。今は幹部となった黒木君や早世した中野君などの優秀な青年が入社してきて、旧態依然の食肉業界の実情に悲憤慷慨(ひふんこうがい)したものだ。その後、立ち遅れた農協組織も自前の屠場を持つほどに力をつけた。

そして大都市に成長した広島市は旧来の屠場を整理して近代的な大屠場を新設することになった。国も市も業者もそれぞれに資金を負担してね。それが現在の見浦牧場が利用している広島市の食肉処理場なのだ。資金力で力をつけた農協を無視して業者だけの屠場運営は不可能になったかどうかは知らないが、農協の発言力は大きくなった。

そのおかげで小さくなって屠場に肥育牛を搬入することはなくなったが、私には初めて広島の屠場に牛を出荷したときの屈辱を忘れることができない。そこで我が牧場の牛には、ことさらに「全農」の文字を加えて、「全農見浦」とマーキングしている。見浦牧場の小さな意地、他愛のないことだが、その意地が見浦牧場を支えてきた、私はそう思っている。

しかし、経済は常に走り続けなければならない。時代が止まることはないし、停滞は、即、競争からの脱落を意味する。小さな牧場だからこそ、意地も戦力にしなくては生き残れない。そして、今日も我が出荷牛には「全農見浦」と大書する。

これが小さな小さな見浦牧場の意地なのである。認められたいから大書するのではない、自分を支えるための意地なのである。

2020.09.24 見浦 哲弥


2021年1月23日

牛の涙(食物連鎖)

病院で看護婦さんに、牛は屠殺されるときに涙を流すのか、と聞かれた、私の心の琴線に触れた話である。答えたいとは思ったが、さすがに高熱の下では適当な言葉が出ない。でもこれは生きることの基本の話、それをこんな形で質問されるとは心外だった。今日は私の考えを聞いてほしい。

私達は食物連鎖の頂点で生きている。各種の肉も魚も穀物も野菜も、彼等は言葉にこそ出さないが、それぞれ生きるための懸命の努力をしていた。少年の頃、稲の籾 (もみ殻をかぶったお米)の種まきの前の作業、浸水(水につける) の作業を手伝った事があった。中にもみ殻が剥げてお米になった粒があって、それも芽を伸ばし始めていた。勿論、機械にかけて白米にしたお米は生命力を失っているが、その前段までは生きる力を持っている。

それは植物であれ、昆虫であれ、動物であれ、生きる努力は変わらない。でも何年もかかって成虫になる寸前のカブトムシの白い大きなさなぎが猪の餌になって無残に食べられてゆく、その幼虫の命と引き換えに猪が生き延びてゆく、それができなくて餌場で餓死した猪がいたな。そんな現実を眼前にみせられて、それが生きると云うことと自然に教えられてきた。人間は食物連鎖の頂点にいるから高等動物の牛や豚や鶏の命も頂戴して生き延びている。そこには可哀想の感情だけでなく、感謝の気持ちがなくてはいけないと、私は信じている。

若かった昔、この手で飼っていた鶏を殺し、山羊や、綿羊を殺して、家族の栄養を補った。でも生き物の命を頂戴して生きると云うことの本質まで理解するのは時間がかかった。

私は、完全に生きたというつもりはないが、先人の一人として多くの命の集積の上で生きてきた、そんな無学な農民の考えも理解して欲しいと思っている。

2020.09.20 見浦 哲弥


2021年1月22日

体力急速低下

人生を最後まで見届けてやると豪語したが現実は甘くはなかった。努力の甲斐あって常人よりもボケの進行は遅いと自負しているものの、その裏付けの体力が伴わない。おー、生きると云うことは簡単ではないんだと痛感する毎日である。

昨日は敷料のバーク (チップ工場の木の皮、畜舎の敷料にする)を取りに行った。勿論、積込みは同行の亮子君(2t車2台でいった)が仕切るので私は運転だけ。往復82キロ、平均時速40キロ、まだ2時間の運転には耐える、左右の確認、信号、歩行者、道路側の認識もできる、ただ道路工事で臨時の停車位置が設けられているのには、対応が遅れがちになった。そろそろ免許返納が近づいたと認識している。しかし25万キロ走った老朽ダンプで過熱を心配しながら、急坂の大谷道をセカンドで登るのには神経を使う。それでもこなせる、と自身に活、あと残された時間は幾ばくもないが、人生の終わりを時間で感じるのは辛いものだ。

午後は荷降ろしで潰れた。何しろ5キログラム以上の重量物を持ち上げる力はもうない。最盛期、60キロの米俵を担いだことは夢の彼方だ。おまけに歩行困難離とくる。残り時間が少ないのに思いだけが空転してね、老いると云うことは生き物にとって現実は厳しい。

それでも私は生きる、最後まで生きる、は苦難の連続だった私のささやかな我儘、何度も投げ出しそうになっても、ここまで頑張ってきたんだ、運命という仕組みが僅かなチャンスを繋いでくれた、これを幸運と受け取らないで諦めたら天の風が「まだ判らないか」と笑うだろう。

しかし、考える力も低下している。文章を書くことも、仕事の段取りのことも。勿論、仕事量は何分の1に減少して能率の上がらないことにイライラすることもあるが、これも生き物のたどる道。近い将来、命が終わる日に 「俺も頑張ったぜ」と胸をはるために気力だけは維持したいものだと思っている。しかし、同じ話を繰り返すようになったと若い連中が笑う、私も老人街道を自身の情勢判断以上の速さであるき続けていることだけは間違いがない。

明日、目覚めるかどうかは神のみぞ知る、そして全力の一日が始まると思い込みながら今日は終了である。

2020.9.7 ここまで生きた、だが体力は急速に低下して、歩行はすこぶる困難、 おまけに長い気管支炎で排たん量が増加してチョコレート色に着色され初めて、1度内科の先生に相談をしたほうが良いかと思ったりしている。

人間の性としては何時までも生きたいと願い、マイナスの面は見つめたくないと努力する、私も大言壮語?の割には凡人での終わりを予感するのは嬉しくない。が、原爆から、もらい自動車事故まで、何度も死神のそばまで流れ着いて助かった幸運は感謝しなければいけない、そして大声で叫ぶ、「辛かったが、いい人生だった」と。

2020.9.7 見浦 哲弥


2021年1月18日

私とウイルス

コロナウイルスが世界中で暴れまわって順調だった世界経済は大混乱、コロナ対策とて外出の制限、集団会食の禁止?、等々、経済も急激な減速で、見浦牧場にも牛価の低下で甚大な影響が及んでいる。

コロナウイルスの出現で忘れていた私のウイルス歴を振り返ることになった。日本脳炎を初めとして麻疹やインフルエンザ等等、数多くある。病気は細菌によるものと単純に思い込んでいたが、振り返ってみたら投薬無しで何日も補液だけの治療が続いたことが何度もあった。あれがウイルスが元凶だった病気と最近勉強、少々気づき方が遅すぎる。

ところが昨年の11月、ヘルペス(帯状疱疹)を発症した。3日で前頭部の1/3と左目の付近まで患部が広がった。最初は細菌による化膿症かと思ったのだが広がり方が異常。実は一昨年、友人のM君もヘルペスを発症、顔が変形して入院したと開いたが、私には関係ないと開き流していた。ところが、嫁の亮子君が私の症状はヘルペスではないかと言い出した。これには驚いて安芸太田病院に駆け込んだんだ。診察した先生「ヘルペスですね、入院しますか」 と。相手がウイルスともなると抗生物質でと云うわけには行かない。翌日、可部の市民病院の4階に入院して闘病が始まったんだ。

貴方も御存知の通りウイルスには抗生剤は効かない。奴さんは細菌でないから、ひたすら体が耐性を思い出す時間を稼ぐしかない。その時間内で体力が尽きたら、終りとなる。したがって体力保持のためひたすら補液で時間を稼ぐ。ところがその体力が老人では衰えていて、死亡する確率が高いとくる。見浦牧場は生物の和牛を飼って生計を立てている。勿論、彼等も生物、 ウイルスから無縁ではない。若い個体は生命力が強いから人間の助力で大部分の患畜は立ち直るが、中には急速に伝染し対応のすべのないウイルスも存在する。これに侵入されたら悲惨である。公的な防疫機関が全頭屠殺し地中深く埋設する。豚も牛も例外はない。幸いこの地方では発生はないが、猪や熊くん、鹿君、狐、 たぬき等々の野生動物が増えてきた。牧場を牧柵で囲ってあるから安心と言うわけには行かないので、考えすぎかもしれないが危険が一杯と云うわけだ。

とは言え、これが私達が住む世界、ウイルスも細菌も全滅させて無菌状態の世界にする、そんなことは望むべきもない。与えられた条件の中で全力を尽くして生きる、それしかない。

私の体力が極限まで落ちてきた現在、与えられた残りの時間を全力で生きる、これが私に与えられた最後の命題である。

2020.9.3 見浦 哲弥


星の瞬き

小板まきばの里キャンプ場の淑子くんがミニキャンプ場の報告に来た。試験開業の結果が思いのほかの反響で驚いたと。

その中で小板の星空の美しさにキャンパー達が感心していたと。最近の都会は不夜城のようで、夜でも煌々とライトに照らされた夜空はただの暗黒のカーテンに過ぎない。勿論、月や光度の高い星々は存在を訴えてはいるものの夜空は寂しい。地球は天の川星団の中に存在する。本来の夜空は満天に無数の星々が輝いているのだが、都会の住民にはそれは見えない、そして忘れがちになる。

都会の発展で夜空の暗黒が失われ、周辺の住民も反射で輝きを失った夜空では無数の星々を確認することは不可能になったが、夜空の星が見えなくても人間の生活には直接の影響はない。いつしかそれが当たり前になって神秘的な満天の星空は都会人の意識の外になった。

ところが、小板まきばの里キャンプ場で夜空を見上げると、そこには別の世界が広がっている。深入山と臥龍山に挟まれた小板は谷底ではなく小さな高原、都会の明かりの影響は全く無く、晴れた日は昔の夜空を再現してくれる。天の川銀河をはじめ、無数の星々が自然そのままの夜空を演出しているのだ。

もう何年昔になるだろう、貴方は百武彗星が地球に接近したのを覚えているだろうか。小さな碁星だったが長い見事な尾を引いて、小板の空一杯に広がった見事な天体ショー、都会の明かりの影響のない小板だから見られたショー。息子の和弥が、これが見られるということが何百万円の価値があると言うことを小板の人は誰も知らないと嘆いた。昨日のことのように覚えているが、小板の住民の話題にはならなかった。

小板まきばの里キャンプ場のお客さんが小板の夜空が素晴らしいと歓声を上げたと聞くと、自然がまだ一杯の小板に限りない愛着を感じる。自然の素晴らしさを再発見してくれる都会人に大きな共感を感じる。思わぬ共通点の発見に次の世界を夢見る見浦牧場、その未来を私の残り少ない時間でどこまで見ることが出来るのやら、痛感するのは人の命の儚さである。

2020.8.18 見浦 哲弥

 

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