2021年1月18日

私とウイルス

コロナウイルスが世界中で暴れまわって順調だった世界経済は大混乱、コロナ対策とて外出の制限、集団会食の禁止?、等々、経済も急激な減速で、見浦牧場にも牛価の低下で甚大な影響が及んでいる。

コロナウイルスの出現で忘れていた私のウイルス歴を振り返ることになった。日本脳炎を初めとして麻疹やインフルエンザ等等、数多くある。病気は細菌によるものと単純に思い込んでいたが、振り返ってみたら投薬無しで何日も補液だけの治療が続いたことが何度もあった。あれがウイルスが元凶だった病気と最近勉強、少々気づき方が遅すぎる。

ところが昨年の11月、ヘルペス(帯状疱疹)を発症した。3日で前頭部の1/3と左目の付近まで患部が広がった。最初は細菌による化膿症かと思ったのだが広がり方が異常。実は一昨年、友人のM君もヘルペスを発症、顔が変形して入院したと開いたが、私には関係ないと開き流していた。ところが、嫁の亮子君が私の症状はヘルペスではないかと言い出した。これには驚いて安芸太田病院に駆け込んだんだ。診察した先生「ヘルペスですね、入院しますか」 と。相手がウイルスともなると抗生物質でと云うわけには行かない。翌日、可部の市民病院の4階に入院して闘病が始まったんだ。

貴方も御存知の通りウイルスには抗生剤は効かない。奴さんは細菌でないから、ひたすら体が耐性を思い出す時間を稼ぐしかない。その時間内で体力が尽きたら、終りとなる。したがって体力保持のためひたすら補液で時間を稼ぐ。ところがその体力が老人では衰えていて、死亡する確率が高いとくる。見浦牧場は生物の和牛を飼って生計を立てている。勿論、彼等も生物、 ウイルスから無縁ではない。若い個体は生命力が強いから人間の助力で大部分の患畜は立ち直るが、中には急速に伝染し対応のすべのないウイルスも存在する。これに侵入されたら悲惨である。公的な防疫機関が全頭屠殺し地中深く埋設する。豚も牛も例外はない。幸いこの地方では発生はないが、猪や熊くん、鹿君、狐、 たぬき等々の野生動物が増えてきた。牧場を牧柵で囲ってあるから安心と言うわけには行かないので、考えすぎかもしれないが危険が一杯と云うわけだ。

とは言え、これが私達が住む世界、ウイルスも細菌も全滅させて無菌状態の世界にする、そんなことは望むべきもない。与えられた条件の中で全力を尽くして生きる、それしかない。

私の体力が極限まで落ちてきた現在、与えられた残りの時間を全力で生きる、これが私に与えられた最後の命題である。

2020.9.3 見浦 哲弥


星の瞬き

小板まきばの里キャンプ場の淑子くんがミニキャンプ場の報告に来た。試験開業の結果が思いのほかの反響で驚いたと。

その中で小板の星空の美しさにキャンパー達が感心していたと。最近の都会は不夜城のようで、夜でも煌々とライトに照らされた夜空はただの暗黒のカーテンに過ぎない。勿論、月や光度の高い星々は存在を訴えてはいるものの夜空は寂しい。地球は天の川星団の中に存在する。本来の夜空は満天に無数の星々が輝いているのだが、都会の住民にはそれは見えない、そして忘れがちになる。

都会の発展で夜空の暗黒が失われ、周辺の住民も反射で輝きを失った夜空では無数の星々を確認することは不可能になったが、夜空の星が見えなくても人間の生活には直接の影響はない。いつしかそれが当たり前になって神秘的な満天の星空は都会人の意識の外になった。

ところが、小板まきばの里キャンプ場で夜空を見上げると、そこには別の世界が広がっている。深入山と臥龍山に挟まれた小板は谷底ではなく小さな高原、都会の明かりの影響は全く無く、晴れた日は昔の夜空を再現してくれる。天の川銀河をはじめ、無数の星々が自然そのままの夜空を演出しているのだ。

もう何年昔になるだろう、貴方は百武彗星が地球に接近したのを覚えているだろうか。小さな碁星だったが長い見事な尾を引いて、小板の空一杯に広がった見事な天体ショー、都会の明かりの影響のない小板だから見られたショー。息子の和弥が、これが見られるということが何百万円の価値があると言うことを小板の人は誰も知らないと嘆いた。昨日のことのように覚えているが、小板の住民の話題にはならなかった。

小板まきばの里キャンプ場のお客さんが小板の夜空が素晴らしいと歓声を上げたと聞くと、自然がまだ一杯の小板に限りない愛着を感じる。自然の素晴らしさを再発見してくれる都会人に大きな共感を感じる。思わぬ共通点の発見に次の世界を夢見る見浦牧場、その未来を私の残り少ない時間でどこまで見ることが出来るのやら、痛感するのは人の命の儚さである。

2020.8.18 見浦 哲弥

 

2021年1月16日

ツクツクボウシ

仕事に追われて気がつくとツクツクボウシが鳴いていた。長い梅雨が晴れてミンミンとミンミンゼミが鳴いて、やっと夏が来たと思ったら、ツクツクボウシ、お盆近くで、はや秋が気配をみせた、それがツクツクボウシの声、それでも塩辛トンボは飛んでも、まだ赤トンボの大群は姿を見せないから、もう少しは夏があるのかな。

振り返ると70年前のこの頃は、向深入で野草の干し草刈りの真最中、草刈鎌一丁で刈り取りから、転草(裏返しにする) 、草集めまで手作業、出来上がった干し草を背負って山腹の急坂を道端まで運ぶ、そんな重労働の連続だったな。元気盛んの青年でも辛かった仕事でね。お盆が過ぎると晴天が続く日がなくて毎日通り雨ががやってくる。お陰で折角の干し草が牛が食べない敷科となって残念がった遠い違い日の思い出が蘇る。

小板は中国山地の小さな集落である。戦後ようやく訪れた平和でも広島から小さなバスで4時間も5時間もかかる超山奥、日に2本のバスが都会と結ぶ、たった一本のラインだった。なにしろ電話もなかったから役場と連絡するのも1日がかり、病気になったら大変だった。そんな超辺境の地だった小板には、自然だけは一杯だったね。

雪が降って、春が来て、夏がタ立を連れてきて、そして田園が稲穂で色づいて、そんな自然の営みが当たり前のように続いていた。よく見れば微妙に変化はしていたのだが。そして今年も最高の気温の猛暑のときが過ぎようとしている。それを教えてくれる一つがツクツクボウシ。

忘れがちな時の移ろいを教えてくれる自然、そして我が身の老いを痛感させられる時間、そして、よく生きたなと感慨にふけっている。

2020.8.15 見浦 哲弥


2021年1月15日

まだ動ける

89歳も半ばを過ぎて体力の低下は進行を止めない。次の大台の90歳まで生き残れるかは微妙な瀬戸際の問題になった。勿論、老化は進行を止めることはなく、ちゃくちゃくと次の段階に進んで食事の量も昔の1/3にも及ばない。それでも体は動くから人間の意志の力には感心する。

もっとも作業量の低下は著しく1年前に出来た仕事の1/3-1/5にも及ばない。若いと云うことが、どれほど素晴らしいことかは老人になってはじめて痛感している。

しかし、周囲を眺めると私の年齢に達しないで、日常の生活まで他人に頼る、そんな話をよく耳にする。この小板でも私より年長の人はすでに介護施設か老人ホームである。自慢にはならないが、私が現況に満足しないとなると、欲深爺さんと呼ばれかねない。

さて、衰えた体をいかにコントロールして長く持たせるか、問題が起きる度に考える、仕事のことも、日常生活のことも、忘れてはならないのは頭脳の方も確実に劣化を続けていて、一つの答えをまとめるのにも時間が必要とくる。昔は瞬時に結論が出たのにね。これも悔やみ事の一つである。

しかし、幸いなことに根性だけは錆びついてはいない。そこで劣化した頭脳でどう対応するかを考える。そして正解の答えが浮かんできた時は俺はまだ生きているんだと力が湧いてくるのだ。

人間は不思議な動物である。前向きの努力を続けると終わりかと思うときでも道が開けることがある。もっとも最近の医学の進歩は私の知識の範囲を超えて、余命○○日と診断されると的中する確率は思いのほか高い。したがってF君の場合のように余命3ヶ月との宣告がほぼ的中したりする。だから診断をされてから生活態度を変えても、手遅れで無駄と言うことに相成る。要は日頃から頭脳と肉体に絶えず刺激を与えて訓練することをせず、ぼんやりと終わりの道を歩いていては、気がついて方向転換しようと思っても、加速がついた流れの方向転換は至難のわざだと云うことらしい。

能力が低下したとはいえ、現在の私は同年齢の老人から見れば異常に元気に見えるらしく、異口同音に「元気ですの」と、のたまう人が多い、お世辞かもしれないがね。

ともあれ、まだ動いている。明日の朝の目覚めは保証の限りではないが、眠りは怖くはない。正直なところ何時まで生き延びるかは確信はないが、恐怖心はない。

ともあれ、今日も生きた、食欲のないのが少々不安ではあるが、何とか最低の栄養は補っているから、見浦哲弥のやせ我慢人生がまだ続くかも。どこまでか続くかは神?のみぞ知るではあるが。

2020.8.4 見浦 哲弥


2020年12月1日

怨念

あれは共同経営の後始末で走り回っていた頃の話だ。理想に燃えて多角経営を共同で始めたのはいいが相手が悪すぎた。義弟のHが逃げの名人とは知らずに家内の弟だからと一方的に信じたのが間違いのもと、自分の不明が原因だから誰も恨むところはなかった。しかし、押し付けられた借金の山には苦労したな。

その折に出会った小さな出来事の一つ。

牧場の開設の話を聞きつけた農機具メーカーのセールスマンがやってきた。「牧場を開設中というので機械の売り込みにこさせてもらった、お隣で実演会を開くのでお宅も見て購入を検討してほしい」と。

正直、逆さに降っても、そんな資金はどこにもない、見るだけならと言っても可能性のない期待をもたせるわけには行かない、私の信条に反すると正直に内情を話してお断りしたんだ。

実際に実演会があったかは記憶はないが、何日かして、そのセールスマンが話を聞いてくれとやってきた。

私は「貴方にはうちの事情をお話してお断りしたはず」と答えたら「今日はその話ではない。胸の内を誰かに話さないと収まらない。是非、少しばかり時間を割いてほしい」との頼みで聞くはめになった。

私が気が付かなかったが実演会は実際にあったらしい。そして今日は売り込みに行ったというんだ。ところがお隣さんはもう他のメーカーに注文したから用事がないと言われたと、悔し涙を流しながら話す。 勿論、 競争の時代だから、価格が折り合わないとか、機械の適合性とか、様々な条件があって買う買わないはお客さんの自由だが、実演会までやらせて一言も挨拶もなくて他社に乗り換える、これには我慢ができなくて、人間のやることではないと、誰かに胸の内を明かさないと収まりがつかなくてと。実演会は当時の金でも10万円以上かかったとか、懸命の売り込みだったのに商品の欠点や価格の折り合いでキャンセルなら諦めもつくが一言もなくて、他社に決めたからお宅からは買わないは酷すぎると。

私は昔、ヤンマーの舶用エンジンのセールスをしていたことがある、付き合いのあった網元の中には空約束で裏切られたことも何度かある、そんな網元は最後は破産して無一文になって路頭に迷った、お隣も必ず破綻する、見浦さんにはこのことを覚えていてほしいと。

うっぷんを吐きだして少しばかり気分の収まったセールスマン氏、「ありがとありました」 と礼をいって帰っていった。見浦牧場の再生に苦闘の連続の毎日で忘れていたが、セールスマン氏の予言どうり、お隣が崩壊するのには20年の時間は必要でなかった、家族は崩壊しー人ボッチで酒で気持ちをまぎらわす、そして「どうがーしてかいの一」と言いながら敗残の身を晒して生きた。

私は、セールス氏のあの悔し涙の顔だけは忘れることができない、「見浦さん、貴方は本当の話をして断った、だから開いてもらいたいと寄った」、今でもあの時の顔は思いだす。

人間は誠実に生きるのが基本、自己中心の一時逃れの生き方では資格はない、でもそんな人が案外多くてね。

お隣さんは「なして、わしゃー運がわるい」と世間を恨んで死んだが、あの世なるところでこの話を思い出したら、今度は真面目に生きてほしいものだと思っている。

2020.7.24 見浦哲弥


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