2021年1月15日

まだ動ける

89歳も半ばを過ぎて体力の低下は進行を止めない。次の大台の90歳まで生き残れるかは微妙な瀬戸際の問題になった。勿論、老化は進行を止めることはなく、ちゃくちゃくと次の段階に進んで食事の量も昔の1/3にも及ばない。それでも体は動くから人間の意志の力には感心する。

もっとも作業量の低下は著しく1年前に出来た仕事の1/3-1/5にも及ばない。若いと云うことが、どれほど素晴らしいことかは老人になってはじめて痛感している。

しかし、周囲を眺めると私の年齢に達しないで、日常の生活まで他人に頼る、そんな話をよく耳にする。この小板でも私より年長の人はすでに介護施設か老人ホームである。自慢にはならないが、私が現況に満足しないとなると、欲深爺さんと呼ばれかねない。

さて、衰えた体をいかにコントロールして長く持たせるか、問題が起きる度に考える、仕事のことも、日常生活のことも、忘れてはならないのは頭脳の方も確実に劣化を続けていて、一つの答えをまとめるのにも時間が必要とくる。昔は瞬時に結論が出たのにね。これも悔やみ事の一つである。

しかし、幸いなことに根性だけは錆びついてはいない。そこで劣化した頭脳でどう対応するかを考える。そして正解の答えが浮かんできた時は俺はまだ生きているんだと力が湧いてくるのだ。

人間は不思議な動物である。前向きの努力を続けると終わりかと思うときでも道が開けることがある。もっとも最近の医学の進歩は私の知識の範囲を超えて、余命○○日と診断されると的中する確率は思いのほか高い。したがってF君の場合のように余命3ヶ月との宣告がほぼ的中したりする。だから診断をされてから生活態度を変えても、手遅れで無駄と言うことに相成る。要は日頃から頭脳と肉体に絶えず刺激を与えて訓練することをせず、ぼんやりと終わりの道を歩いていては、気がついて方向転換しようと思っても、加速がついた流れの方向転換は至難のわざだと云うことらしい。

能力が低下したとはいえ、現在の私は同年齢の老人から見れば異常に元気に見えるらしく、異口同音に「元気ですの」と、のたまう人が多い、お世辞かもしれないがね。

ともあれ、まだ動いている。明日の朝の目覚めは保証の限りではないが、眠りは怖くはない。正直なところ何時まで生き延びるかは確信はないが、恐怖心はない。

ともあれ、今日も生きた、食欲のないのが少々不安ではあるが、何とか最低の栄養は補っているから、見浦哲弥のやせ我慢人生がまだ続くかも。どこまでか続くかは神?のみぞ知るではあるが。

2020.8.4 見浦 哲弥


2020年12月1日

怨念

あれは共同経営の後始末で走り回っていた頃の話だ。理想に燃えて多角経営を共同で始めたのはいいが相手が悪すぎた。義弟のHが逃げの名人とは知らずに家内の弟だからと一方的に信じたのが間違いのもと、自分の不明が原因だから誰も恨むところはなかった。しかし、押し付けられた借金の山には苦労したな。

その折に出会った小さな出来事の一つ。

牧場の開設の話を聞きつけた農機具メーカーのセールスマンがやってきた。「牧場を開設中というので機械の売り込みにこさせてもらった、お隣で実演会を開くのでお宅も見て購入を検討してほしい」と。

正直、逆さに降っても、そんな資金はどこにもない、見るだけならと言っても可能性のない期待をもたせるわけには行かない、私の信条に反すると正直に内情を話してお断りしたんだ。

実際に実演会があったかは記憶はないが、何日かして、そのセールスマンが話を聞いてくれとやってきた。

私は「貴方にはうちの事情をお話してお断りしたはず」と答えたら「今日はその話ではない。胸の内を誰かに話さないと収まらない。是非、少しばかり時間を割いてほしい」との頼みで聞くはめになった。

私が気が付かなかったが実演会は実際にあったらしい。そして今日は売り込みに行ったというんだ。ところがお隣さんはもう他のメーカーに注文したから用事がないと言われたと、悔し涙を流しながら話す。 勿論、 競争の時代だから、価格が折り合わないとか、機械の適合性とか、様々な条件があって買う買わないはお客さんの自由だが、実演会までやらせて一言も挨拶もなくて他社に乗り換える、これには我慢ができなくて、人間のやることではないと、誰かに胸の内を明かさないと収まりがつかなくてと。実演会は当時の金でも10万円以上かかったとか、懸命の売り込みだったのに商品の欠点や価格の折り合いでキャンセルなら諦めもつくが一言もなくて、他社に決めたからお宅からは買わないは酷すぎると。

私は昔、ヤンマーの舶用エンジンのセールスをしていたことがある、付き合いのあった網元の中には空約束で裏切られたことも何度かある、そんな網元は最後は破産して無一文になって路頭に迷った、お隣も必ず破綻する、見浦さんにはこのことを覚えていてほしいと。

うっぷんを吐きだして少しばかり気分の収まったセールスマン氏、「ありがとありました」 と礼をいって帰っていった。見浦牧場の再生に苦闘の連続の毎日で忘れていたが、セールスマン氏の予言どうり、お隣が崩壊するのには20年の時間は必要でなかった、家族は崩壊しー人ボッチで酒で気持ちをまぎらわす、そして「どうがーしてかいの一」と言いながら敗残の身を晒して生きた。

私は、セールス氏のあの悔し涙の顔だけは忘れることができない、「見浦さん、貴方は本当の話をして断った、だから開いてもらいたいと寄った」、今でもあの時の顔は思いだす。

人間は誠実に生きるのが基本、自己中心の一時逃れの生き方では資格はない、でもそんな人が案外多くてね。

お隣さんは「なして、わしゃー運がわるい」と世間を恨んで死んだが、あの世なるところでこの話を思い出したら、今度は真面目に生きてほしいものだと思っている。

2020.7.24 見浦哲弥


2020年11月19日

努力すればの言葉

「努力すれば」は誰もが唱える正論で、私の90年近い時間で見た世界は、まさにその言葉どおりだった。しかし、この言葉は本当にその道を歩んだ人だけがロにできる、努力を忘れた人間が口にしてはいけない言葉なんだ。それは反面恐ろしい破滅の近道なのだから。

私の生きた小さな世界でも、天国と地獄が、この言葉を実行するか弄ぶかで現れた。たったこの一言のね。それは金持か貧乏かは関係はなかった、そして身近で起きた。しかも義弟だったから、悲しみは大きかった。これは体験して理解しないと、どんな忠告も空滑りになってわかってもらえないと云う現実、そして、その中から立ち直れるのは、ほんの一握りの人だけという厳しさなんだ。

私は逆境に耐えると云うことを子供のころから学んだ。否応なしに学ぶしかなかった。見浦家の没落で、戦争中の動員中で、短かったけれど広島のお店の丁稚奉公で。逆境の中での生きる難しさを理解できずに不満で一杯だったけれど、大人になって、その一つ一つが教訓として蘇った。そしてそれを乗り越えることしか次の世界にたどり着く道はなかった。理解するまで少々時間がかかったが、幸いこの考え方は私の財産になった、正解だった。おかげで貧乏ではあるが心豊かに暮らせたし、分に過ぎた家族や先生方や友人を持つことが出来た、幸せだった。

でも義理の弟が”あんなことは誰でもできる” と宣って、忠告しても忠告しても自分が正しいと我を張って破滅していった。家族を犠牲にして、言い訳だけロにする悲劇、私の周囲にもそんな人が5人も6人もいた。その人達が口にしていた「アガーなことは頑張リャー、誰でもできる」と言いながら何一つ出来なかった現実、二度とない人生を無駄にしていった人達は、私には教訓だったが。

田舎では忘れることが、思いやりだと誰もが人の失敗はロにしない、そして繰り返す。人は愚かな動物なのかもしれないね。

努力の言葉をロにするのは容易い、しかし、実行することは大変なことなんだ。そして明日からでは駄目なんだ、思い立った今日、今からでなくては。明日からは、言い訳でしかない。

貴方は、この1度きりの命を言い訳の人生にするのか、胸を張って話せる生き方にするのか、この私に聞かせてほしい、私が生きているうちにね。

2020. 7. 4 見浦哲弥



2020年11月9日

見浦牧場の初代として

見浦牧場をはじめたのは私が28歳の頃だと記憶している (最近は記憶があやふやになった)。 数えると60年を超す。末息子の和弥が進学をあきらめて小板に帰ってきてくれて、お嫁さんの亮子くんが家族の反対を押し切って追っかけてきてくれて30年余、男の子の孫が三人、 見事な大人になり始めた。

こう書くと順風満帆と思うかも知れないが、少資本の農家が牧場経営に乗り出して成功するのは稀で、この地方で成功しているのは乳牛牧場が1、2軒である。まして和牛の子牛の生産から肥育牛の出荷まで行う一貫経営で成功した話は開いたことがない。しかも見浦牧場はささやかな直販店を3女が経営していて消費者の気持ちが直に伝わってくる。資本的に労働力的に安泰になったとは言えないが一つの形にはなったと自負している。しかし見浦牧場が成功したと認められるのには、 まだ30年も40年もかかるのだろう。その姿を見たい気持ちはあるが、所詮叶わぬ夢である。

もし、私の夢が実現して子供さんたちが「見浦の牛肉は美味しい」 と買いに来てくれる、そんな牧場が出来たら、という思いが私を支えてくれた。恩師の中島、榎野、岡部、3先生方をはじめとして理解して頂いた方々に胸を張って「出来ました」と報告ができる、そんな日の来ることを、千の風になっても見たいと夢をみている。私の生きている間は可能性はないが、見浦牧場100年の歴史と胸をはって言える、そんな牧場が出来たら素晴らしいなと思うのは、私のささやかな夢である。

しかし、一つの仕事を仕上げるには人の命はあまりにも短い。結果は” 千の風” になって空の彼方から見つめるしかない。全力で築き上げたと自負していても、最終がプラスと出るかマイナスと出るかは神?のみぞ知る、である。それでも一度きりの人生、無為に過ごして後悔するよりも、子供たちに自信を持って話す実績を持つべきだ。努力を避けて安逸に流れて飲酒で夢の世界だけをさまよって、人生を悔事だけで世を去る人が小板にも数多くいた。それも晩年は我が運のだけを口実に酒で紛らわす、 そんな人を見るのは肉親でなくとも心が痛んだ。

私の時間はあとわずかになった。未完成の牧場を次に託す、心は残るが人生はあまりにも短い。有意に使わなければ過ぎ去った時間の後悔のみが残る。今度生まれたら、は戯言である。

でも、私は人に話せる自分を少しは持てた。それで良しとしなければ。それは、父母や先祖、先生、先輩方のおかげなのだから。

2020.6.26 見浦 哲弥


2020年10月29日

カラスのボス

 見浦牧場の西側は小さな小山である。四方を見下ろせる小山の松林はカラスの絶好の宿泊場所、いつのころからかカラスの大群が住み着いた。考えてみれば三段峡をはじめとしてキャンプ場、深入山や刈尾山の登山道等、都会人が集まるところが近辺にある。カラス君にしてみれば食事には大変都合がよろしい。おまけに都会人が少ない日には牛舎に侵入して牛の餌を盗食、天国だとのたまう。人間様には大迷惑なのだが、カラス君は馬耳東風、いやカラス東風で傍若無人である。

この地方の三段峡をはじめとする都会人が集まる場所は、厳しい積雪期が過ぎるとカラスどもの恰好のレストランに変化する。目ざとい彼らは好機到来とばかり観光地を周るツアーに出発して見浦牧場のカラスも激減、10~20羽で安定する。それでもいたずらはやめないが冬期のようなすさまじさはない。スカベンジャーとしては我慢の範囲内である。

10月13日、カラスの軍団の一部がご帰還である。総勢50羽ぐらいか、ここは俺たちの餌場だとて子牛の餌に群がる。人間が折ったぐらいではびくともしない度胸の持ち主たちである。この春はノフウド(生意気、やんちゃの意)なサブリーダを罠で捕まえて見せしめにぶら下げてやったら、彼らもしばらくはおとなしくなったのだが、もう記憶の彼方に消し去ったらしい。また思い知らせてやると老人は唇をかみしめる。

そして来る雪、伴ってカラス軍団の本体も見浦牧場にご帰還になる。また切歯扼腕(せっしやくわん:悔しいがどうすることもできないこと)して悔し涙を流しながら雪解けを待つことになる。自然はいいことばかりではないんだ。

おい、カラス、俺は年は取っても無抵抗になったわけではない、覚悟していろよ。

2019.10.13 見浦 哲弥


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