ラベル その他 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル その他 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009年10月9日

「連載記事 中国山地」に願いをよせて

先日は私の文章に関心をお寄せいただいて、有難うございました。読書家の先生が一時間もお読みいただいたとは驚きました。関心をお持ちいただいたことは光栄です。
私と先生との接点は、昭和39年11月か12月か、年の瀬が迫っていたと記憶しています。
あれからほぼ20年ごとの「中国山地」の記事、私たちも興味を持って読ませていただきました。
先生も御承知のように、この地帯の激変ぶりは、ここに生活の基盤を置いて人生を賭けてきた私たちも驚嘆するほどの変わり方でした。しかし、その感じ方は外部からの見方とは大きな違いがあったはずです。それを両面から描いていただきたかった。これがほぼ20年ごとに企画された3回の連載に対する私たちの不満でした。

第一回の取材には困難な時代の中でも明日に夢を持つ農民が描かれていました。もっとも大多数の農民は大変だ大変だと将来を模索していましたが、希望は感じられたのです。

しかし、二回目の「中国山地」では夢破れた農民や、無住になった集落の話が目につきました。その中で、私たちを取り上げていただいた記事には、身びいきながら明日へ懸命に生きる農民もいると紹介してありました。それはどん底を這いまわっていた私たちにとって、暖かい応援歌でした。でも全体として一回目に比べて後ろ向きで弔歌がが聞こえてくるような、中国山地の没落が表現されていました。

そして三回目の連載は、途中で読む意欲を失ったのです。
マスコミの役割は、現実を正確に報道する、それが使命であり、存在理由であることはよく存じていますが、この複雑で込み入って、理解が難しくなった経済システムの中で、暗中模索、右往左往している農民に、これはこういうことなんだ、生産者の立場だけでなく、消費者のニーズにこたえてゆく、新しい時代が始まっているんだ。どこそこの農民はこんな理解をしている、このような対応で時代に挑戦している、等々、明日につながる報道、記事の作り方はできなかったのかと思うのです。
ただ、眼前に起きている現象をそのまま伝えるのなら、人間はいらない、コンピュータで十分。それはチャップリンのモダンタイムスの世界、すでに何十年も昔に指摘されていることです。
現在のマスコミに期待するのは現実だけでなく、明日への希望とその考え方、それを少数ながら明日に歩き続けている人達がいる、中国山地の住民を通じて人間の夢を語ってほしかったのです。

生産者としての農民も消費者としての都会人も、大きくマスコミの影響力を受けている。私は、中国山地の人たちが新しい時代に歩き出す、応援歌を書いていただきたかったのです。

難しいことだとは思いますが、50年に近い時間の中で3回も継続的に取材され連載された先見性をお持ちの中国新聞、最初の取材のときに20年ごとに繰り返したいとおっしゃっていた記者さんの約束が3回も果たされた勇気に、もうひとつ先見性という勇気を添えていただきたい、私はそう願っているのです。

時代は大きく変化して、外国からの資源の入手が困難になり始めました。
中国山地に放棄されているさまざまな資源も見直しが必要となるのも時間の問題になりました。
外国とちがって不利な条件の中での再開発は人的資源の充実が前提条件です。若者の育成、これは大会社の問題ではなく、われわれの身近な問題なのだと理解しています。
そのためには、地域に理解が深い中国新聞の人的、物的の知的財産は、必要不可欠の資源だと理解しています。

地方紙の雄として自他ともに認められている中国新聞、これから始まる困難な時代にその力を発揮されることを、心から願っているのです。

2008.4.19 見浦 哲弥

2009年2月8日

祖父

 祖父、父の父、自分の血の4分の1が同じ人、とはいっても、私の孫にとっては、はるかかなたの先祖になりますね。ですから、私の孫は、その人がどんな人で、どんな生き方をしたのか、どんなエピソードの持ち主だったか、知ることはできない。もし、知ることが出来たら、彼らの生き方の参考になるかもしれない、そう考えたのですよ。
 そのためには、まず、私の知っている祖父像を書き残さなければ何も始まらない。それがこの文章のプロローグなんですよ。

 見浦家の私の父は弥七、祖父は弥三郎、曾祖父は亀吉、それから先は名前は知らない。
 亀吉の先代、つまり私の曾曾祖父は一家言があったようで、意志の弱かった長男を家からだして、家督を次男の亀吉に継がせた。長子相続制が確立していた時代にですよ。
 その追い出された長男の跡継ぎが住福で、見浦家の血筋は絶えて養子の子供が現在の継爾くん、彼のお爺さんの謙一さんにこの話を聞かされた。謙一さんは、祖父の弥三郎とは仲がよかったようで、今の家と田畑は、弥三郎に勧められて買ったのです。それまでは藤や谷のあばらやが住まいだったというから、当時としては思い切った能力主義だったのですね。

 亀吉は大変な切れ者で、当時建設中だった国道広島益田線の小板通過には、県庁の役人と大論争を繰り広げたとか。その結果、国道は集落を縦断する形で建設された。それが旧国道191号線です。彼の論拠は、主要道路が集落を通らないのでは集落の発展はない、たとえ多少の寄り道になるとしても集落の中を通すべきだと。当時はまだ、交通の重要性が理解されていなかった時代にです。

 それにつけても思うのは、毛利氏の本拠地だった吉田町のこと。鉄道の芸備線は町の中心をはるかに離れて通っているのです。初めて芸備線で三次まで言ったとき、吉田駅がないのを不思議に思いました。国鉄のバスには吉田駅があったのにね。きけば、鉄道が町の中心を通ることには最後まで反対の勢力があったとかで、そのおかげで吉田町は田舎町から発展することはありませんでした。

 そんな時代に交通の重要性を理解していた亀吉は、強引に小板の集落を縦断する形に国道を通したのですから、先見の明があったのだと思うのです。
 道は集落や田畑のほとりに曲がりくねって付いているもの、そう理解している住民は、田圃の真ん中を直線で道路を通した彼を殺してやると騒いだと聞いています。

 しかし、そんな彼にも弱点がありました。理屈では県の役人には負けなかったが、文字が読めなかった。文盲だったのです。ですから、県から文書が来ると息子の弥三郎に読んでもらった。
 ところが弥三郎は文章の要点だけ「なになにだとー」と省略する。亀吉じいさんはそれに腹が立ってもどうすることもできない。悔しくて悔しくて、それなら、と孫の弥七に勉強させたのです。弥三郎がだめなら弥七がいると。ですから、弥七が勉強している時は、どんなに多忙な時期でも特別あつかいだったと。

 弥七のことは改めて記すことにして、亀吉がずば抜けた人材だったことは、伝聞でも明らかですが、それに比べて弥三郎は目立たぬ人だったといいます。私の知る弥三郎は、私たち悪童孫集団のイタズラを目を細めて「ほうほう」と笑いながら見ていた優しい優しい爺様でした。
 昭和16年に帰郷して2年弱たった昭和18年の冬、81で亡くなったのです。私は、父母の死に水をとることは出来なかったのですが、彼の最後には立ち会うことが出来ました。
 真っ白な見事なあごひげの小柄な爺様、今でも、その穏やかな顔が瞼に浮かびます。そして、町内のいたるところで聞かされた逸話から、彼の人柄がほうふつと浮かび上がるのです。
 その中の1つが次の話です。

 ある年、広島のある旅館で弥三郎爺様が1夜の宿を求めたといいます。コート代わりに使い古した赤い毛布(赤ゲットといいましたね)をかぶって、「一晩泊めてもらえんかのー」と。
 宿の女中さんはみすぼらしい姿の爺様に「今夜は満室で部屋はないよ」と断りました。「あがーいんこう、どがーな部屋でもええけー、なんとかしてつかーさいや(注:そんなことを言わないで、どんな部屋でもいいから、なんとかしてください)」と爺様。
 そこで顔をよく見ると、悪い人間ではなさそう。「階段下の布団部屋でよかったら」と女中さん。
「えー、えー、それでえーけー。飯はあるかいのー(注:いい、いい、それでいいから。飯はありますか)」
「火を落としたけー、飯はないで(注:火を落としたから、飯はないよ)」
「そんなら風呂は御願いできるかいのー(注:それなら風呂は御願いできますか)」
「今人がはいっとるけー、空いたらゆうてあげるけー(注:今人が入っているので、空いたら言ってあげるから)」
 さて、真夜中近く「おじーさん、風呂が空いたけー」と女中さんが呼びに来た。そして「風呂に入ったら、掃除をしてお湯を抜いておいて」と風呂場に案内してくれた。
 あくる朝、「昨日は遅かったんで宿帳がまだだったんで書いてほしい。それから宿賃はいくらいくら」と女中さんがきたとか。爺様おもむろに胴巻きを引き出して、札束から1枚ぬいて「これで勘定してくれんさい。それからもう一晩厄介になられんかのー」といったよし。
赤ゲットの爺様が思いもかけず金持ちだったことに驚いた女中さん、帳場に飛んでいって番頭さんに「かくかくしかじか」。
番頭さん、「どこへ泊めたんなら?」「布団部屋」「すぐに部屋を変えてもらえ」とかなんとか。
 前夜とは打って変わった扱いにムカッときた爺様。「お爺さん、お風呂に入ってください」と一番風呂を案内しにきた女中さんの言葉に何食わぬ顔で「ハイハイ、今日は風呂が早いですのー」と風呂にいったよし。
 「女中さん、良い風呂でした」と声をかけられた女中さん、次のお客さんに「風呂が空きました、どうぞ」と声をかけたとか。
ところが、裸になって風呂場に入ったお客さんが驚いた。湯船にお湯が一滴もない。かんかんに怒って帳場に怒鳴り込むお客さん、「この宿はお客に風邪を引かすのか!」と。
 番頭さんにしかられた女中さん「お爺さん、なんちゅう悪さをしんさるんなら(注:なんという悪いことをなさるのですか)」と爺様に文句をいうと、爺様はすっとぼけた顔で「あんたー、夕べ、風呂が済んだら掃除をして、お湯を抜いておけといいんさったで、掃除もしときましたが、どこが間違いでしたかの?」と。
 この話がこの地方で有名なのは、田舎者とバカにされていた人がずいぶん多かったせいなのでしょうね。

 私が小板に帰った年、昭和16年、大畠には林蔵さんとミカヨさんという2人の住み込みの使用人がいました。
 林蔵さんは40過ぎ位の少しばかり知能の遅れた、顔のケロイドがあって一見恐ろしそうに見えたのですが、気のやさしい親切な男、ただし仕事の前はきれなかった。(仕事のできないことを表現します)何しろ牛が怖い、牛を扱う田仕事は又一さんとよぶ通いの男衆と、小学5年の私が動員されて田圃に入らせられる。仕事はできないが表裏のない本当にいい人だったな。私を呼ぶのに、「坊ちゃん」とは絶対に呼ばないで「哲弥さん、哲弥さん」と名前で呼んでくれた。乏しい知識を懸命に伝えようと努力してくれた。
 ミカヨさんというのは、30後半の聾唖者、正規の教育を受けていないので、手話はできないが、林蔵さんに輪をかけた正直もの。かわいがってもらったな、水屋(台所)と畑の世話、ただし、料理は下手だったな、春はゼンマイとワラビなどの山菜とり、空きは柴栗拾いやナバ(きのこ)採り、そんな山国のことを教えてもらった。手真似と声の調子、態度で意志が通じて、身障者と思ったことは一度もなかった。
 小板に帰る前に住んでいた、三国の家の川向うに教育を受けた聾唖の青年がいて、時々彼が普通の大人の人たちと手話で熱心に話しているのを見かけました。周りの人たちも変わりのない付き合いをしていた、そんな光景を見、母からはそれは当然のこととして教えられていたから、ミカヨさんにも差別感はありませんでした。何しろ私の知らないことを山ほど知っている、大先輩でしたから。

 ある時、集落のおばあさんが話してくれた。大畠に世話になった人は多いんよ、と。食べるのに困ったら大畠にいく、子だくさんで大畠から学校(小学校だけど)にいった子供は、あそこと、あそこと、大人の人も少し問題があって働き口のない人も、給料は安いけれど食べさせてもらえると。

 そんな爺様でしたから、孫には優しかった。ずいぶん悪戯をしたのに、母方の祖父には叱られた記憶ばかりなのに、見浦の爺様には一度も叱られたことがなかった。今でも眼を細めて笑っていた顔が頭に浮かびます。でも、目先は見える人だったようで、見浦の爺さんに一泡吹かせてやろうと画策する人も多くて、どんな旨い話をしてもかからなかったとか。かえって裏をかかれて悔しがったとか、そんな話を何度も聞きました。

 そのうちの一つ、隣部落の知恵者が集まって、見浦の爺に一泡吹かせてやろうと、相談をしたといいます。
 何の話で引っかけるか。「あの爺様は頭が回るのは嘘はだめ。しかし、人間だけー、眼のたわんことはあるで、そんなら、あの奥にある山と、この部落の見浦の田んぼと交換ちゅう話はどうかいの」
「そりゃーええで、山奥じゃけー誰も行ってみたものはおらんし、境も丘から丘へ、っちゅうばかりで誰も知らんのだけー、かかるかもしれん。持っとるだけで一文にもならん山と、5反(50アール)の田んぼの交換はおもしろいで。」
 その話を持ち込まれた爺様は「あの田んぼは小板から4キロもあるんで、作るのが大儀になっとったあんたらが、ええのなら換えてもええで」と承諾したとか。
 知恵者共は、見浦の爺様も人間じゃー、このたびは見えなんだのー、と大喜びだったとか。
ところが、爺様、役場を訪ね、登記所を訪ね、隣接地の地主に境界を教えてもらって、息子の弥七にコンパスと平板と三脚をそろえさせて、人の背丈より高い熊笹を踏み分けて測量に入ったとか。
測量して驚いた。その山から流れ出る小川が小板の小川より大きい。出てきた測量の結果は260ヘクタール。見浦の爺様も驚いたが、隣部落の知恵者が驚いた。引っかけたと思ったのが逆で、前代未聞のあほな取引。あんなに広いと思わなかったので、この話は白紙に、といったとか言わなかったとか。悪意で始まったこの取引、爺様は一歩もひかなかった。爾来、このあたりでは見浦の爺様には手を出すな、が教訓として定着したと聞きました。

 後年、神楽団で世襲制度に反対してストライキを、部落の役員会でのタダ酒の禁止を、など、若いくせに一言多い私に対して、「早いうちに芽を摘んでおかなくては」と長老会議が開かれ、年功序列に従わないからと村八分になったのは、前段に祖父の事件があったからでしょう。
何しろ見浦は一代おきに同じような人間が現れるという、風説が定着していましたから。

 しかし、先祖の話は見ようによっては面白い。そして参考になるものです。あなたも先祖の話を探る旅に出ませんか?そして子供や孫に話してみませんか?

2009.1.1 見浦哲弥

2008年11月5日

文章を書く

 私が文章を書き始めたのは、カナダに住む一番下の妹(サチ子)に母のことを書いてくれと頼まれたのが始まりです。
 私が小学校6年生のとき、5人の幼い子供たちを残して、ガンに倒れた母の記憶が、当時2歳だった妹には全くない、それで兄貴がボケないうちにと依頼されたのでした。

 はじめは思い浮かぶままに文字の羅列に過ぎなかった文章も、少しは進歩したのか、自分で読み返しても面白く、あんなことも、そんなこともあったと、人生を振り返るよすがになりました。
 ところが一方老化も進行し、あの事も書いておきたいと思っても、いざパソコンに向かうと頭から消えていることが多く、そこで、思いついたら即、題名と書き出しだけをメモることにしたのですが、今度は未完成の文章が山積みするようになりました。

 気分が向いたらコンピュータに話しかける、それも2-3行づつ。この方式では完成までにとんでもない時間がかかるのですが、積み重ねるということは恐ろしいもので、半年から1年後には仕上がっていく、まとまりを欠く恐れは多分にあるのですが、目下はこの方式で書いています。

 しかし、人間というのは勝手なもので、いざ、記憶を文章に変えようとすると、成功したときや、自分が正しかったときが前面に出てしまいます。世の中そんなにうまい話ばかりではなくて、私もご他聞に漏れず、失敗も間違いも結構ありました。
 それがなかなか出てこない。今となっては失敗も文章の彩りになるのにと、残念です。

 最近は見浦牧場のホームページの読者が増えてきたようです。面白いといってくださる方も多くなりました。
 無学の私の文章にも興味を持ってくださるのは、見浦牧場の考え方の基本が皆さんと少し違っているせいでしょうね。
それは何か、見浦牧場の判断の基準は「自然」なのです。自然の現象を観察して、自分たちの考えて照らし合わせてみる、自然が生き方のものさしになっている。そのことだと思います。

 見浦牧場は中国山地の真ん中にあります。厳しい気象、自然環境、そして経済条件。その中で懸命に生きてきた家族の体験や歴史は外部の人には面白いレポートと読まれるのでしょう。
 でも、見知らぬ人から読んでますよ、と声をかけられ、一部でも私たちの生き方に賛意を示してもらったときは、書いてよかったなと思うのですよ。

 今日、隣部落の高信さんが訪ねてきました。彼は私たちの又従兄弟、もう80歳をはるかに過ぎたのに、もうろくの兆しはなく、昔話に華が咲きました。彼もマイコンで記録をとっているとか、もともと頭のよい人でしたが、まだ衰えていない。
 お互いにこの年までボケずに生きてこられて、数多くの経験とそれなりの知識を持っているのに、次の世代に伝わっていない。記憶が失われる前に文章にして記録しておこう、と意見が一致しました。

 1時間あまりの話の中で、彼も私も知らなかったことを数多く知りました。残った時間はわずかです。急いで記録してゆきます。
 残念なことは、もう少し文章がうまいと、皆さんにより多く読んでもらえるのでしょうが、そこは我慢して読んでください。

 では、これからも、思いついたまま、駄文を書き続けますので、どうかよろしく。

2008.6.3 見浦 哲弥

2008年9月6日

ワンチャンス、ワントライ

 私は、3人の女の子と2人の男の子の子宝に恵まれました。その子供たちは、広大の理学部、同総合科学部、九大農学部、愛媛大学教育学部、井口高校(この子は私が過労で体調を崩して、進学をあきらめてもらいました。担任の教師に、なぜ大学に生かせないのかとずいぶん説得されました。国立一期校の現役合格の可能性を持つ子の将来をつぶすのか、とね)を卒業しました。
 私の家庭は他の文章で何度か紹介したように、見浦家(戸河内町では小板の大畠は旧家の端くれでした)のどん底からスタートしたのです。そんな私と自分の意思で人生を共にする道を選んだ、家内の晴さんは、ずいぶんな物好きだったと今でも思っています。

 当時は、小板も若い人が多くて(長女は22歳のときの子供)よく集まって議論しました。敗戦でそれまでの軍国主義が一変して民主主義に、長老支配が多数決政治に変わったのですから、事ある毎に議論が紛糾しましてね。子供の家庭教育もそのひとつでした。

 私が小板に帰ったときは、小学校は餅ノ木の生徒を含めて27人、樽床ダムの工事が始まってからは工事関係者の子弟も通ってきて70人を超していました。もっとも新制中学校が併設されていましたが。
小板集落の生徒が半分以上でしたから、各家庭は子供5人6人の子沢山でしたね。ですから子供の事は共通の話題で、よく議論の種になったものです。

 曰く、「子供は親の都合で生まれてきたのだから、借金しても悲しい思いをさせてはいけない」「高校ぐらいは卒業させなくては世間体が悪い」等など、戦前の地主制度に苦しみぬいた農民が、農地解放と高米価と好調な林産物の売れ行きに、子供たちには自分たちの辛い思いはさせないと、考え出した理屈のひとつでした。でも、その論理は、自分たちの都合で作り上げた、身勝手な考えでした。

 私は、たとえ家庭という舟が泥舟であっても、乗り合わせた以上、沈まないためには貧乏に耐え、苦労を分かち合って目的地に着く努力を全員でする、それが当然のことではないか、と主張したのですが、見浦は子供のことを考えていない、かわいいと思わないのかと笑われました。

 私は、それならわが道をいくと、長女の祐子に申し渡したのです。
「今、見浦はこういう仕事をして、年収がこれぐらい、支出がこれぐらいで食べていくのが精一杯。だから他の家庭のように、進学は当たり前、ということはできんのよ。」と数字を挙げて説明したのです。
彼女が小学校2年か3年生のときです。子供ではなく、大人に話すように。理解はできなかったでしょうが、私の真剣さはわかってくれたのでしょうね。最後は彼女も懸命に聞いてくれたことを覚えています。
 「でも、おとうちゃんは家にお金がなくて進学できなくて、悔しくて悔しくて独学をして資格を取ったけれど、勉強がしたくても進学できない悔しさは今でも心に刻み込まれているんだ。だから、上の学校に行きたかったら、1回だけチャンスをあげる。国公立の高校、大学に1回で合格したら、どんな苦労をしてでも行かせてあげる。これはおとうちゃんの約束。」 懸命に聞いていましたね。昨日の事の様に瞼に浮かびます。

 それからの彼女は勉強の態度が違ってきました。他の子供たちと微妙に差が出始めた気がしました。私の子供ですから、特別の頭を持っているわけではありませんが、自分のために勉強している、そんな感じでした。

 中学は戸河内中学でした。進学のとき、こんなことを話した記憶があります。
「分からない事があったら何べんでも聞きなさい。知らないこと、分からないことは恥ではない。聞かないこと、理解しないことが恥なの。担任の先生で分からなかったら、他の先生に教えてもらいなさい。事務室には先生がたくさんいるはず。それでしかられたら、父ちゃんが謝りにいってあげる。」と。
 ところが、そんな彼女が半年もしないうちに、勉強ができる、頭がいいと注目されるようになりました。先生方だけでなく、PTAのお母さんの中から、小板の山奥でも勉強ができる子がいるんだと、失礼な発言が飛び出す始末。でも本当のことを知っている人はいなかった。彼女が小さいときから自分のために勉強をしていたということを。

 勉強というものは、どんな目的で、誰のために努力するのかが理解できると、いろいろな事柄が知識として頭に入り始める。これは結構面白いものです。まして、周囲の同輩たちが認め始めるとやりがいまで生じてきます。
 彼女は学区外の市内公立をめざしました。戸河内中学の秀才さんに混じって、3人の合格者の1人として舟入高校に入学したのです。

 高校でも失敗を繰り返しながら認められ始めました。市内の生徒さんにしてみれば、山県の奥から来た山猿に見えていたのでしょうが、やがて本領を発揮、国立一期校受験の1人に選ばれました。そして広大理学部数学科に現役合格をしたのです。
 彼女が広大進学後、初めての帰宅で「父ちゃん、数学は考え方の学問だった」と報告してくれたとき、この子にはもう親としてのアドバイスは必要ではないと安心したものです。

 下の弟妹たちにも、祐子と同じようにその年齢になると同じ文句で申し渡したのです。
 「見浦は貧乏だけど、一度だけチャンスをあげる。上の学校に行きたかったら、自分のために勉強しなさい。」姉の成長を見ていた弟妹は、ねえちゃんには負けたくない、とがんばり始めました。
 これが見浦のワンチャンス、ワントライ教育法の起源でした。
 でも、子供たちが進学を目指して本気で勉強を始めると、約束の手前、私たちも懸命に働いて学資を捻出しなければなりませんでした。
時は見浦牧場にとって開設初期の正念場、子供たちへの月末の仕送りは私たち夫婦にとって大問題、時間よ止まれと何度思ったことか。
子供たちも奨学金の支給を受けるために、懸命の努力で成績を上げなくてはなりませんでした。

 祐子が50歳代になり、あの困難の時代も遠い思い出になりました。
 そして人生そのものがワンチャンス、ワントライなのだと、理解できるようになりました。

 今でも「見浦の子は頭がよくて、勉強ができて」と、子供たちの同級生の親御さんに話しかけられて驚くことがあります。実はこうこうなのでと、内輪話をしたくなります。しかし、若いお父さん、お母さんには必要な話でも、同年輩では茶飲み話の話題には重すぎます。もはや私の時代は過ぎたのです。

今日は、見浦のワンチャンス、ワントライ教育法の話でした。
では、また。

2008.2.8 見浦 哲弥

人気の記事