2007年7月28日

原爆の女の子

 今年も8月6日がやってきました。
 あの前日の夜、県庁の建物疎開で働いていた広島市から、庄原にあった農兵隊の本部へ帰隊して、間一髪で難を逃れた私に、この日が来る度に思い出す女の子がいるのです。

 昭和20年7月の終わりに、10日間の予定で、仲間4人と県庁の建物疎開の手伝いを命じられました。予定日数分の米と味噌を持たされ、引率の幹部に連れられて、県庁の講堂へ。ここだけが、まだ壊されていなくて、案内の県の職員が、山積みされた宿直の布団を指差して、好きなのを持って行って好きなところで寝ろと。本部からきた幹部曰く、倒された建物の整理をして釘を抜けと。目的は古釘、錆びとらん奴を一本でも沢山持って帰れ。新しい釘は手に入りませんでしたからね。幹部は「手を抜かずに本気で働け。遊んだりすりゃあ、ただじゃあ済まんぞ。集めた古釘の量でわかるけぇの」。言うだけ言うと、さっさと庄原へ帰って行きました。

 何しろ七月の終わりの広島は暑いのなんのって、庄原の七塚原は別世界でしたからね。
 宿舎の講堂の周りは瓦礫の山、米軍の猛爆撃で日本の都市が片っ端から灰になって行く最中でしたから、少しでも焼失の面積を減らそうと、防火線と称して建物を帯状に破壊して行く。それを建物疎開と言いましてね。まだ建てられて間もない家も防火線上にあったら最後、壊されてします。余談になりますが、母方の叔父に医者がいて、粒粒辛苦やっと建てた病院を残して軍医として召集され、敗戦で帰郷してみたら建物疎開で病院は破壊されていて、もう少し敗戦が早かったらと、落胆のあまり自殺した、そんな悲劇もありました。庶民にとって、戦争は絶対するものでなく、巻き込まれるものでもありませんね。

 さて、あの年は暑かった。10日の間に1日だけ雨でした。夕立が一度ありましたか、今思い出しただけで汗が出る、そんな暑さでした。夜は蚊が多くて山積みされた蚊帳を吊って潜り込んで寝たのですが、まともに張れなくて苦労しましたね。
 朝10時ごろまでは何とかしのげるのですが、それからは、汗との闘い。あの幹部の脅しが恐ろしくて、錆びていない古釘を探して、瓦礫の山に登ったり降りたり、サボることなど考えませんでしたね。
 11時半になると、当番が飯盒炊飯、薪だけは山ほどありますから苦労はありませんでした。おかずの味噌をなめての食事も、大豆や芋が大半の本部の隊の食事より、混ぜもののない麦飯はご馳走でした。

 何日かして、通りかかった女の子が、声をかけてきました。「 あんたらー、味噌しかなぁんか。」 少し年上の16、7の女の子でした。「これしか食べるもんがなぁけぇ、しかたがないんよ。」「ふーん」その女の子はしばらく考えて、「あんたらー、一寸おいで」というと講堂の陰にあった、社員食堂の裏に連れて行きました。そして4人の飯盒の蓋にジャガイモの煮付けを入れてくれたのです。思いもかけぬ親切でした。煮付けも美味しかったが、それより好意が嬉しかった。60年も昔の事なのに、今でもその暖かさを心に感じます。
 翌日、あの女の子はいないかな、と食堂の周りをうろついていたら、50くらいの男の人に、「食券を持たないもんが来る所ではない」と、犬ころのように追い払われました。

 以来、8月6日のときには、あの女の子の冥福を祈って黙祷しています。
 同時に、私達を怒鳴りつけた男の人が、あの女の子の身代わりになっていてくれればなぁと、、、食い物の恨みは恐ろしい・・・・ですね?。

 8月5日の夜行で庄原の駐屯地に帰って、辛うじて一命を拾った私に、あの優しさは心に染み入る教えでした。彼女との出会いも、大切な大切な出会いでした。
 どんな時でも、他人の思いに心を走らせる事は、人としての優しさを持ちつづけるために大切な事なのですと。

 つらい戦争の中にも、人生の教室がありました。

2005.8.5 見浦哲弥

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