先日は、立派な梨、お送りくださって有難うございます。一寸立派過ぎて気後れをしたかな。尻の町の上に2本あった梨の木を思い出します。大きいけれど甘くない木と、小さいけれど熟れ過ぎて腐る寸前が美味しかった小さい梨、よく兄弟で登ってゆすったなと、思い出して感傷に浸りました。今は土砂を掘り取って何処にあったかも想像がつきませんが、私にとって懐かしい思い出です。
私も82を越えてあと半年もしない中に83、貴方も81歳ですね。お互い長生きをしたものです。覚えておいででしょうが白いあごひげの祖父が数え年82でしたから、それを越えたと言うことになります。長い人生が終わりに近くなって、物忘れが多くなって、辛かったこと、悲しかったこと、楽しかったこと、皆消えようとしています。色々な事がありすぎた。
電話でお礼をと思ったのですが、思いきって手紙を書くことにしました。この次はないような気がして、駄文を我慢して読んでください。
達ちゃんも持っていると思いますが、私たちの最初の記録は福井の日之出下町の家の門先の写真です。二人とも上下が続いたシャツを着て写っていますね。あの写真は野村のてい叔母が持っていたローライレフで撮ったものです。確か現像も自分でしていたのではないかな。背景の壁は道を隔てた大きな紡績工場の壁ですが、騒音の記億がありませんでしたから縫製工場だったかもしれません。
それから母と兄弟3人で写った写真、あれは近所の写真館で撮った写真、母の顔が寂しそうだったのが気にかかります。貴方が持っていた象の玩具、誰が持つと取り合いになって、あれから貴方が重病になった。母の顔はそのせいだったかも?。
貴方が福井の赤十字病院に入院したのは私が小一のとき、長い入院だったのを記憶しています。父ちゃんも病室から学校に行った。退院の時、院長先生に「再発したら、今度は助からない」と宣言されたとか。谷口の伯父さんが内科の医師でしたから、勉強好きの父はその病気の知識は山ほど持っていたのでしょう。
それから、私と信弥さんと貴方では父の叱り方が違いました。80を越すまで元気で生きている貴方をみて一番喜んでいるのは父ちゃんかもしれませんね。
それから忘れられないのは、三国汐見の恵比寿?さんのお祭り。小学生の男の子がお神輿のお供をして三国の沖の海を一回りするのが行事でね。神様が海の神様だから仕方がないが河口から出るとゆれてね。貴方はお神酒の樽をしっかり持って番をしていた。ところが私の役は何だった全く覚えがない。
昭和16年4月16日?、小板に帰りました。母がサチ子を、親父がヒロ子ちゃんを背負ってオシロイ谷を登りました。晴れた日で暖かった。男の子三人は遠足気分でね。でも登りはきつかった。
大畠の家は牛が5-6頭も入るダヤが、人間と一つ屋根の下に入る大きな家で、10ワットの電灯が一つ。便所が怖くてね、サチ子ちゃんがこれだけは覚えていました。
祖父の弥三郎さんは80歳過ぎで真っ白で長い見事な口ひげのお爺さん、私たちのいたずらを「ホー、ホー」言いながら一度も叱ったことがありませんでした。昭和17年夏、母が死んで半年後になくなったときが数えで82歳、私は弥三郎爺さんの年を越えてしまったのです。
母といえば何時も思い出すのは最後の前日、貴方と信弥さんに鮎の塩焼きをほぐしながら食べさせていた姿です。そして「一生懸命生きてね」そんな言葉を聴いた気がします。隣の部屋で看病に来ていた上殿のおばさんが声を忍んで泣いていました。そして私の番「人の真心がわかる人間になれ、そして兄弟仲良く」と、生涯、心を離れない言葉でした。でも努力はしても出来なかったな。
翌朝、目覚めた時はカーちゃんは冷たくなっていました。臨終は夜中だったとか。優しい母でした。でも厳しさもありました。私も懸命に努力はしたのですが母の期待には添えなかった。
それから半年余りの冬、弥三郎爺様も亡くなりました。父と私たち子供5人の悲喜劇が始まりました。よく覚えているでしょう。辛かったが懐かしい、貴方には随分迷惑をかけたと冷や汗がでます。
最近は老化の進行が激しく記億がどんどん消えています。早く貴方に私の記憶を伝えなくてはとあせったのですが、気ばかりせいて中々書き出せませんでした。頂いた梨のお礼状を書かなければと思ったのがきっかけになりました。
立派な梨を有難うございました。そして昔を有難うございました。貴方と兄弟であったこと本当に幸せでした。どうか何時までもお元気で。老化の進行が遅ければ又思い出話を聞いて頂きたいと思っています。
2013.9.17 見浦哲弥
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