ところがもう何をしても時間がない、役にはたたないと、勉強も努力もしない人が多い。死後の後生安楽を願って信心三昧、昔は多かったですね。でも社会が進歩して情報が充満し、知識吸収の機会は山積みしているのに、遊びに、旅行に、信心に、と後ろ向きに走るだけなのは間違っていると思うのです。
先日、牧柵の修理のため、冬の間に切り倒して小切ってあった(必要な長さにきること)栗の木を取りに行きました。土の上に転がしてあった木を持ち上げると、裏側に数本の枝が伸びていました。そして新芽が出て葉が開き始めていました。
いままではごく当たり前と思っていた現象でしたが、その時は違っていた。これは自然からのメッセージかもしれないと思ったのです。
世間一般では、定年がきてリタイヤすると余生を楽しむとて後ろ向きになる人が多いなかで、私の男の同級生でただ一人生き残っている的場くんも、そして私も、まだ現役で仕事をしている。貧乏といえばそれまでですが、旅行だ、レジャーだと残りの人生を楽しむだけに使っている人が先立って行く。
70年あまりもつきあった的場くんの顔を見るたびに、自然の教えはそうではない、最後まで全力を尽くしなさい、それが無駄であってもと、訴えているようです。
根のない丸太の生き残る可能性はゼロに近い、たとえゼロでも前向きの努力をしなさい、仕事も勉強も許す限りの全力を尽くしなさい、これが自然の生き方なのですと。
私の人生の指針は自然、見浦牧場のモットーは
”自然は教師、動物は友、私は考え学ぶことで人間である”
人称して見浦教。
長い人生で起きた様々な出来事の中で、私は自然の理を参考に生きてきました。でも終わりの生き方は目下勉強中。その中で気付いたこの現象は、大きな自然の教えなのかも知れません。
最後まで人間らしく生きる、そのためには無駄と思えることもけっして無駄ではないと。
一本の丸太が教えてくれたこと、私の頭は、大切なことなんだ、徒労ではないんだと、繰り返し訴えています。
長い人生の迷い道で何度も正道を教えてくれた自然、間違っているはずはない。これからも迷いながら残りの人生を歩いてみようと思っています。
2011.5.31 見浦 哲弥
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