2021年2月16日

ツクツクボウシ2

夏の日、小板の自然はアブラゼミの大合唱である。暑い暑いと言いながら時を忘れて仕事に精を出す。タ方ふと気がつくとセミの声の中に微かにツクツクホウシと秋の前ぶれの声が交じっていた。

今は河川改修で消え去って偲ぶべきもないが、うまれ故郷の三国の九頭竜川と竹田川の河口の交点にあった汐見の桜堤防、夏はアブラゼミの大合唱だった、遠い遠い少年の記憶が昨日のことのように蘇る。あの大合唱には及びはないが、小板でも同じセミの合唱は聞こえる。そのセミの声にツクツクボウシの声が交じると、季節は一気に秋になだれ込むのだ。それを聞くと冬近し、小板の一番の厳しい季節が目前と身構えるのだ。時間は止まることはない、いや高齢になるにつれて時間が高速で過ぎてゆく、残りの時間は少ないよ、と声をかけながらね。

ツクツクボウシの鳴き声の時間は短い、何日かして、ふと気がつくともう聞こえない、時は急速に秋になり、冬に走りこむ、そこで若かりし時代とは時間の流れの速さが異なることに気がつく。二度とない時間が去る現在の感覚は体験したことのないもの、長い地中での生活の末、晴れやかに命を歌った蝉たち、彼等の地上の時間も短い、そして私も振り返れば短い命だった、精一杯生きたのだろうかは自信がない。

夏のひと時、ふと耳に止めた蝋の声が心に染み込んで幸せを感じている。

2020.09.26 見浦 哲弥


2021年2月3日

巨大な猪家族

元スキー場の草刈りで巨大な猪家族に出会った。50メートルも離れていたかな。巨大な成獣のペアと仔猪が4頭。人間がいると確認しても逃げないのだから、小板も野獣の天下になり初めた。仔猪は懸命に餌探しだが、巨大なペアは時おり顔を上げてこちらを確認をするだけ、人間のほうが飲まれてしまってね。本来ならトラクターに飛び乗ってその場を離れるべきなのだが、奴さんたちの行動に注意を集中してしまって、彼等がやぶの中に消えるまでをただ見つめるだけ。消えてから危ないと感じたのだから私ももうろくした。

小板も豪雪の時期が過ぎて暖冬が続くようになった。そのせいで昔は見なかった動物までご機嫌伺いにやってくる。サギもその一つ、アオサギとシラサギが二羽か三羽、お陰で小板川の小魚は激滅してたまにしか見かけない。少しは遠慮してくれと声をかけたくなる。

ただ、あれほどいた兎は見かけなくなった。冬の朝は彼等の特徴ある足跡が雪面一杯に広がっていたものだが、最近は年に1一2匹見かけるだけ。ところが猪はバツグンに増え、牧草地を初め道路端まで、およそミミズがいそうなところは徹底的に掘りまくる。普通の田畑は電柵を設置しないと収穫皆無になるありさま、おまけに日中でも見かけることが多くて、人間何するものぞの勢いである。これでは年老いた住民が集落から逃げ出すのも無理はない。

ところが小板で見かけるのは、この一家族だけでない。我が家の近くでも5頭のウリ坊(縞模様の残る仔猪)を連れた一族を確認したと家族が報告、とんでもない非常事態が発生しているのだ。

かっては2-3人もの猟師がいて獣を追い回していたのに、老齢化で一人もいなくなってから小板は彼等の天国と相成った。少数になった人間様は被害におののくだけ、幸い事故は先年、熊に引っかかれた1件だけで、幸いと云うしかない。

さて、見浦牧場はこれからこの野獣たちとどう付き合ってゆくのか、老人は大いに気がかりである。

2020.09.26 見浦 哲弥


2021年1月30日

全農見浦

「全農見浦」、屠場に牛を出荷すると出荷主の確認を容易にするために牛の腹部に黄色いペンキでマーキングする、その折、見浦牧場の牛に書く ネーミングである。従前は農協専属の屠場への出荷だったから、出荷主の確認は、日本の牛全頭に装着が義務付けられている耳標の確認でことが足りたのだが、現在は合理化のため小さな屠場は廃止されて、この地区は広島の屠場に出荷する。100万都市広島の屠場には全国から牛が集まる。勿論、耳標確認はするのだが、屠場の職員が確認しやすくするために胴体に名前を書き入れる。確認を容易にするためにね。

最初に何と書こうかと思ったんだ。が、ふと思い出してね、遠い昔、農協の自前の屠場ができる前、まだ農協の肥育牛売買の部門が確立していないときだ。そのころは農協経由で広島や呉の屠場に処理を委託して肥育牛を出荷していた。最初の肥育牛を当時の広島の屠場に連れて行った時、弱小の農協経由の出荷と知った3-4人の業者に「よくそんなボロ牛を持ってこれるな」などと散々いじめられてね。その悔しかったことは、あれから60年も経ったのに昨日のことのように思い出す。

時代が変わって、今や農協の上部団体の全農(全国農業協同組合連合会の略)の食肉部も力をつけた。今は幹部となった黒木君や早世した中野君などの優秀な青年が入社してきて、旧態依然の食肉業界の実情に悲憤慷慨(ひふんこうがい)したものだ。その後、立ち遅れた農協組織も自前の屠場を持つほどに力をつけた。

そして大都市に成長した広島市は旧来の屠場を整理して近代的な大屠場を新設することになった。国も市も業者もそれぞれに資金を負担してね。それが現在の見浦牧場が利用している広島市の食肉処理場なのだ。資金力で力をつけた農協を無視して業者だけの屠場運営は不可能になったかどうかは知らないが、農協の発言力は大きくなった。

そのおかげで小さくなって屠場に肥育牛を搬入することはなくなったが、私には初めて広島の屠場に牛を出荷したときの屈辱を忘れることができない。そこで我が牧場の牛には、ことさらに「全農」の文字を加えて、「全農見浦」とマーキングしている。見浦牧場の小さな意地、他愛のないことだが、その意地が見浦牧場を支えてきた、私はそう思っている。

しかし、経済は常に走り続けなければならない。時代が止まることはないし、停滞は、即、競争からの脱落を意味する。小さな牧場だからこそ、意地も戦力にしなくては生き残れない。そして、今日も我が出荷牛には「全農見浦」と大書する。

これが小さな小さな見浦牧場の意地なのである。認められたいから大書するのではない、自分を支えるための意地なのである。

2020.09.24 見浦 哲弥


2021年1月23日

牛の涙(食物連鎖)

病院で看護婦さんに、牛は屠殺されるときに涙を流すのか、と聞かれた、私の心の琴線に触れた話である。答えたいとは思ったが、さすがに高熱の下では適当な言葉が出ない。でもこれは生きることの基本の話、それをこんな形で質問されるとは心外だった。今日は私の考えを聞いてほしい。

私達は食物連鎖の頂点で生きている。各種の肉も魚も穀物も野菜も、彼等は言葉にこそ出さないが、それぞれ生きるための懸命の努力をしていた。少年の頃、稲の籾 (もみ殻をかぶったお米)の種まきの前の作業、浸水(水につける) の作業を手伝った事があった。中にもみ殻が剥げてお米になった粒があって、それも芽を伸ばし始めていた。勿論、機械にかけて白米にしたお米は生命力を失っているが、その前段までは生きる力を持っている。

それは植物であれ、昆虫であれ、動物であれ、生きる努力は変わらない。でも何年もかかって成虫になる寸前のカブトムシの白い大きなさなぎが猪の餌になって無残に食べられてゆく、その幼虫の命と引き換えに猪が生き延びてゆく、それができなくて餌場で餓死した猪がいたな。そんな現実を眼前にみせられて、それが生きると云うことと自然に教えられてきた。人間は食物連鎖の頂点にいるから高等動物の牛や豚や鶏の命も頂戴して生き延びている。そこには可哀想の感情だけでなく、感謝の気持ちがなくてはいけないと、私は信じている。

若かった昔、この手で飼っていた鶏を殺し、山羊や、綿羊を殺して、家族の栄養を補った。でも生き物の命を頂戴して生きると云うことの本質まで理解するのは時間がかかった。

私は、完全に生きたというつもりはないが、先人の一人として多くの命の集積の上で生きてきた、そんな無学な農民の考えも理解して欲しいと思っている。

2020.09.20 見浦 哲弥


2021年1月22日

体力急速低下

人生を最後まで見届けてやると豪語したが現実は甘くはなかった。努力の甲斐あって常人よりもボケの進行は遅いと自負しているものの、その裏付けの体力が伴わない。おー、生きると云うことは簡単ではないんだと痛感する毎日である。

昨日は敷料のバーク (チップ工場の木の皮、畜舎の敷料にする)を取りに行った。勿論、積込みは同行の亮子君(2t車2台でいった)が仕切るので私は運転だけ。往復82キロ、平均時速40キロ、まだ2時間の運転には耐える、左右の確認、信号、歩行者、道路側の認識もできる、ただ道路工事で臨時の停車位置が設けられているのには、対応が遅れがちになった。そろそろ免許返納が近づいたと認識している。しかし25万キロ走った老朽ダンプで過熱を心配しながら、急坂の大谷道をセカンドで登るのには神経を使う。それでもこなせる、と自身に活、あと残された時間は幾ばくもないが、人生の終わりを時間で感じるのは辛いものだ。

午後は荷降ろしで潰れた。何しろ5キログラム以上の重量物を持ち上げる力はもうない。最盛期、60キロの米俵を担いだことは夢の彼方だ。おまけに歩行困難離とくる。残り時間が少ないのに思いだけが空転してね、老いると云うことは生き物にとって現実は厳しい。

それでも私は生きる、最後まで生きる、は苦難の連続だった私のささやかな我儘、何度も投げ出しそうになっても、ここまで頑張ってきたんだ、運命という仕組みが僅かなチャンスを繋いでくれた、これを幸運と受け取らないで諦めたら天の風が「まだ判らないか」と笑うだろう。

しかし、考える力も低下している。文章を書くことも、仕事の段取りのことも。勿論、仕事量は何分の1に減少して能率の上がらないことにイライラすることもあるが、これも生き物のたどる道。近い将来、命が終わる日に 「俺も頑張ったぜ」と胸をはるために気力だけは維持したいものだと思っている。しかし、同じ話を繰り返すようになったと若い連中が笑う、私も老人街道を自身の情勢判断以上の速さであるき続けていることだけは間違いがない。

明日、目覚めるかどうかは神のみぞ知る、そして全力の一日が始まると思い込みながら今日は終了である。

2020.9.7 ここまで生きた、だが体力は急速に低下して、歩行はすこぶる困難、 おまけに長い気管支炎で排たん量が増加してチョコレート色に着色され初めて、1度内科の先生に相談をしたほうが良いかと思ったりしている。

人間の性としては何時までも生きたいと願い、マイナスの面は見つめたくないと努力する、私も大言壮語?の割には凡人での終わりを予感するのは嬉しくない。が、原爆から、もらい自動車事故まで、何度も死神のそばまで流れ着いて助かった幸運は感謝しなければいけない、そして大声で叫ぶ、「辛かったが、いい人生だった」と。

2020.9.7 見浦 哲弥


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